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人的資本経営時代に給与を適切に調整するには(8)

人的資本経営時代に給与を適切に調整するには(8)

 

人的資本経営を実現する人材戦略を給与や報奨の面からさまざまに検討してきましたが、最後に『時間や場所にとらわれない働き方』という課題があります。多くの企業にとって、この課題は人的資本経営を実現するしないに関わらず、コロナ禍や人手不足への対応という直近の経営課題や人事課題に対応する上でも喫緊のテーマであることは論を俟ちません。

『時間や場所にとらわれない働き方』を実現するには、給与のことだけではなく、仕事の分担方法や進め方に始まり、コミュニケーションや業績評価のありかた、部下の指導や能力開発、人材の発掘や仕事へのチャレンジ、企業全体や組織がもつ不文律などの価値観など、組織や業務のすべてを見直さなければならない課題となっています。当コラムでは、こうした課題について触れたもの(注7)を既にいくつか掲載していますので、詳しくはそれらをご覧いただくとして、ここでは賃金や報奨に関するものに絞って考えてみましょう。

 

まず、『時間や場所にとらわれない働き方』のうち、「時間にとらわれない働き方」と賃金や報奨の関係ですが、これにはふたつの面からアプローチすべき課題があります。

ひとつは、成果を労働時間で測るのか成果物や目標達成度など労働時間以外の要素で測るのか、という業績評価に関する課題です。「時間にとらわれない働き方」を実現するためには、必然的に労働時間ではなく成果で業績を評価することになります。

もちろん、労働時間の長さで業績への貢献度が決まる仕事もあるでしょう。仕事の仕組みが決まっていて、マニュアルや作業基準に従って作業を行うことが要求される仕事ですが、それらは一般的に言えば、時間や場所に拘束される仕事です。要するに、決まった職場に出てきて、決まった時間に予め定められた作業を行う仕事です。しかし、より付加価値の高い(利益を生み出せる)仕事は、時間や場所よりも、個人の能力の違いがはっきりと出る仕事であり、業績評価はその人の生み出した成果によるしかありません。

一人ひとりの成果を労働時間で測ることができるのであれば、残業代の差が個人の業績評価の差を代理するといってもいいのでしょう。しかし、労働時間で測ることが不合理というのであれば、短期的には(明確な金額差がある)業績賞与で、中長期的にはストックオプションのような株式連動型報酬制度で、金銭的に報いるべきです。

もうひとつの「時間にとらわれない働き方」についてのアプローチは、働く時間帯(日時・曜日や時刻など)を会社が指定し強制するのか、働く人が自分の都合でスケジュールや時間数を選ぶ体制なのか、という労働時間の選択に関わる課題です。

人手不足に対応し女性・高齢者などを労働戦力化していくには、旧来のように9時から5時まで全員が同じ時間帯に毎日出社して働くというルールや慣行を見直す必要があります。ミーティングや共同作業などは同じ時間帯に全員が参画することが求められますが、それとても参加者を本当に必要な数に絞るとか、いわゆるコアタイム以外ではミーティングを設定しないといった、組織運営上の新たなルールが要請されます。

「時間にとらわれない働き方」の場合、時間帯や時間数に関係なく、同じ仕事を担当するのであれば、その仕事の1時間当たりの報酬単価は同額というのが原則となります。これは本当の意味での職務給であり、同一労働同一賃金の原則を徹底することに他なりません。

もし、同じ仕事をしているのに、深夜勤務や休日勤務以外の事由によって時間帯や時間数が違うと時間単価が違うということは認められません。同じ個人が同じ仕事をする際に、時間帯や時間数が違うから異なる賃率(1時間当たりの時間単価)を適用するのであれば、労働価値がそもそも違うことになってしまいます。実は深夜勤務や休日勤務も、その時間帯は仕事をやりたいと思う人が少ないと捉えれば、その分のプレミアムを付加した賃率にする経済合理性があるのです。

現実的には、同じ程度の能力と人事制度上認めている個人どうしであっても、雇用契約の違い(正社員か非正規か)や地域や場所の違いによって異なる賃率となることが常態化しています。こうした賃率の格差は本人たちが許容できる程度の範囲に収まっているのであればいいのですが、そうでないならば「時間にとらわれない働き方」を実現する上での障害となりえます。つまり、非正規の雇用者について、多くの場合、同様の仕事をしている正社員との賃率格差を是正する必要が出てくるでしょう。

 

次に「場所にとらわれない働き方」ですが、これも二方向からのアプローチから検討すべきテーマです。ひとつは、住居地の自己決定と通勤の許容度に関する課題です。もうひとつは、オフィスや工場などの会社が指定する場所に出社する義務とIT活用を前提とした出社しなくてもよい自由とのバランスに関する課題です。

住居地の自己決定というのは、言い換えれば転勤を拒否する自由であり、リモートワークを行う権利でもあります。通勤の許容度とは、働く人は何時間までどのような手段での通勤に耐えられるのか、会社は通勤交通費をどこまで負担するのか、という課題です。

旧来の雇用関係では、いずれも会社がルールとして定めて抽象的な表現ではあっても一応は就業規則にも明示することで、転勤は業務命令であって特段の事情がない限り拒否はできませんし、通勤交通費も税法上の範囲と公共交通機関へのアクセスが担保されている範囲のうちで、会社負担として運用されてきました。この慣行の反対給付として、特に転勤者については低廉な費用負担で社宅を貸与することや、同時に住宅ローンの利子補給を会社が行うことなどで一定範囲で住居を定めることを推奨していました。

これから「場所にとらわれない働き方」を実現していこうとすれば、これらの慣行から脱却し、どこに住もうが本人の選択に任せるとともに、通勤や転勤も会社と本人が一定の条件で合意した上で行うものに切り替えていくべきでしょう。特に成果を出すことが強く求められる仕事に就こうとする人は、転勤で新たに成果を出す機会が得られるのならそのチャンスを掴むべきですし、通勤が苦痛と思われたり通勤時間が無駄な時間と判断できたりするのであれば、完全な在宅勤務とか職場に隣接した物件に居住することを条件として仕事を引き受けることがあってもよいでしょう。

なお、地域手当や都市手当など指定された勤務地が異なることに対する手当が支給されていたり、地域ごとに賃金相場(特に採用時賃金)に応じて異なる基本給を支給している場合、「場所にとらわれない働き方」を進めているには地域差を反映した賃率(1時間当たりの時間単価)を採用していることになります。そのため、賃率の高い地域から低い地域への転勤は、本人に特段の事情(親の介護や子女の教育環境など)がない限り、通常はありえないことになります。

次に検討するのは、もうひとつの課題である、オフィスや工場などの会社が指定する場所に出社する義務と出社しなくてもよい自由とのバランスについてです。

業務上の必要性から出社や出張が求められる仕事は、当然、その赴くべき場所に赴くことになりますから、この課題はその場所に赴かなければ仕事ができないわけではない仕事についての課題に過ぎないのです。業務上の必要性から出社や出張が求められる仕事は、ITの発展が目覚ましい現代では、本質的にはあまり多くはないでしょう。特に事務部門の仕事については、ITのセキュリティさえ保障されていれば、実務ベースでは原理的にオフィスでなければできない仕事はない、と言っても過言ではありません。

つまり、ITの活用レベルと組織の慣例や経営幹部の価値観などによって、このバランスは決まるのです。コロナ禍の1年目はともかく、その後は出社や出張がコロナ前と変わらずに義務的に行われている企業は、「場所にとらわれない働き方」をどうこうする前に、これまでの働き方にとらわれたままであることを再認識しなければなりません。

この課題は、一見、働く場所に拘っているように思えて、実は上司(経営者)が部下を目の前にしないと安心できないだけ、というケースが大半ではないでしょうか。そうであるならば、上司(経営者)を変えない限り、課題は課題のまま存在し続けます。退職者が多く出るとか、労働生産性がいつになっても向上せず業績が悪化するといった、いわゆる末期的な症状が組織全体に出て、初めて上司(経営者)が自らの間違いに気がつくかもしれません。しかし、その時では遅いのです。

 

(9)に続く

 

【注7

『時間や場所にとらわれない働き方』を実現する上で、コロナ禍はマネジメント上の課題をよりはっきりとさせたところがあります。当コラムでは、以下のように既にいくつか言及してきました。

コロナ時代のマネジメント(1 - QMS 行政書士井田道子事務所 (qms-imo.com)

コロナ禍時代のマネジメントを語る座談会(1)~現状どこまで回復してきたか~ - QMS 行政書士井田道子事務所 (qms-imo.com)

リモートワークで評価するには(1 - QMS 行政書士井田道子事務所 (qms-imo.com)

リモートワークにおけるリーダーシップ(1 - QMS 行政書士井田道子事務所 (qms-imo.com)

 

 

  作成・編集:人事戦略チーム(20221216日)