21 Lessons ~21世紀の人類のための21の思考~(1

 

 

 

(1)今ここで考えるテーマ

 

 

 

 今回ご紹介するのは、イスラエル人の歴史学者ユバル・ノア・ハラリが、これまでの著作物(注1)でテーマとしてきた歴史(過去)とテクノロジー(未来)についての考察を通じて、では「今、ここ」(現在)の課題にはどのように取り組んでいったらよいのか、そうした問題意識にフォーカスして書かれたものです。

 

 

 

21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考

 

(ユバル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳、河出書房新社より201911月発行)

 

 

 

著者は、「はじめに」において基本的な問題意識について、次のように述べています。

 

 

 

本書ではまず、目下の政治とテクノロジーにまつわる苦境を概観する。(中略)ファシズムと共産主義が崩壊したのち、今度は自由主義が窮地に陥っている。では、私たちはどこに向かっているのか?

 

これはとりわけ差し迫った疑問と言える。なぜなら、情報テクノロジー(IT)とバイオテクノロジーにおける双子の革命が、私たちの種がこれまで出合ったうちで最大の難題を突きつけてきたまさにそのときに、自由主義は信用を失いつつあるからだ。(「21 Lessons11ページより)

 

 

 

こうした問題意識の下、本書ではまずテクノロジー、特にITとバイオテクノロジーが現にもたらしている問題やその影響を身近なことから論じ、政治・宗教・テロと戦争といった諸問題を考察し、情報や教育といった最終的には一人ひとりの個人にとっての問題やその影響を見通していきます。

 

以下に本書で採り上げられている21のテーマを挙げておきます。

 

 

 

・幻滅

 

・雇用

 

・自由

 

・平等

 

 

 

・コミュニティ

 

・文明

 

・ナショナリズム

 

・宗教

 

・移民

 

 

 

・テロ

 

・戦争

 

・謙虚さ

 

・神

 

・世俗主義

 

 

 

・無知

 

・正義

 

・ポストトゥルース

 

SF

 

 

 

・教育

 

・意味

 

・瞑想

 

 

 

ここではこれらのすべての事項に言及することはできませんが、マネジメントやキャリアについて考える上で参考にしたいところを中心に、本書の考察をご紹介していきたいと思います。

 

 

 

【注1

 

「サピエンス全史」及び「ホモ・デウス」は日本語版も出版されているので、ご存じの方も多いと思います。

 

最初の拙著「サピエンス全史――文明の構造と人類の幸福」では、人間の過去を見渡し、ヒトという取るに足らない霊長類が地球という惑星の支配者となる過程を詳しく考察した。

 

第二作の「ホモ・サピエンス――テクノロジーとサピエンスの未来」では、生命の遠い将来を探求し、人間がいずれ神となる可能性や、知能と意識が最終的にどのような運命をたどるかについて、入念に考察した。(「21 Lesson7ページより)

 

 

 

文章作成:QMS代表 井田修(202032日更新)

 

 

 

 

 

21 Lessons ~21世紀の人類のための21の思考~(2

 

 

 

(2)タダほど危険なものはない

 

 

 

 2月、3月と時が進むにつれて、COVID-19(新型コロナウイルス感染症)が主に東アジアにおける流行から世界的なパンデミックとして感染が拡大しました。特にここ数日は、欧米での拡大ペースが飛躍的で、日々、どころか時々刻々と状況が大きく変動しているようです。戦時下かと思うほどに例外的な措置をとっても、その方針が急変するなど、各国の政策当局も右往左往して状況に対応しきれていないようです。

 

 こうしたときこそ、冷静な対応が求められるのですが、そのベースとなる確かな情報や科学的な知見を最新のヴァージョンで入手できるのは、極めて限られた立場の人たちでしょう。さすがに中世ではないので「疫病が魔女の仕業である」とか「直すには悪魔払い(注2)が必要」とは言わないまでも、一般の市民にとっては「自分には関係ない」や「いつもどおり暮らす」から「既に感染して発病してしまった」とか「外出禁止になった」まで振れ幅の大きい状況に置かれていることは間違いないでしょう。

 

 こうした状況下では、確かな情報に基づいて迅速な意思決定を行いたいものですが、そのヒントが本書のなかにあります。

 

 

 

第一に、信頼できる情報が欲しければ、たっぷりとお金を払うことだ。現在のところ、ニュース市場で支配的なモデルは、「あなたには費用のかからない、エキサイティングなニュースを、あなたの注意と引き換えに」だ。(中略)ニュース市場のモデルとしては、「お金はかかるが、あなたの注意を濫用しない高品質なニュース」のほうが、はるかに優れている。今日の世界では、情報と注意は決定的に重要な資産だ。自分の注意をただで差し出し、その見返りに低品質の情報しか受け取らないというのは狂気の沙汰だ。(中略)

 

第二の経験則は、もし何らかの問題が自分にとって格別に重要に思えるのなら、関連した科学文献を読む努力をすることだ。ただし、科学文献といっても専門家の査読を受けた論文や、名の知れた学術出版社が刊行した書籍や、定評のある大学や機関の教授の著作に限る。(中略)一方、科学者は科学者で、世間で行われている最新の議論に、これまでよりもはるかに積極的に関与する必要がある。その議論が、医学であれ歴史であれ、自分の専門分野にかかわってきたときには、意見を聞いてもらうことを恐れるべきではない。沈黙は中立ではなく、現状の支持を意味する。(「21 Lessons315316ページより)

 

 

 

第一の経験則も、第二のそれも、常日頃から情報には金と手間を惜しんではならないということでしょう。情報を入手する側だけでなく、発信する側、特に科学者などの専門家が発信することが強く推奨されています。特に、今問題となっているCOVID-19のように、人々の命や健康に関わるものであれば、尚更です。

 

とはいえ、急激に状況が変化したり、COVID-19のような未知の事象に直面したりしている状況では、SNS上の情報しかアクセスできなかったり、真っ当な科学文献が公表されるまで時間的な猶予がなかったりします。

 

そこで、第一の経験則から「あなたには費用のかからない、エキサイティングなニュースを、あなたの注意と引き換えに」の部分に改めて注目してみましょう。こういう時だからこそ、エキサイティングなニュースを鵜呑みにすることを避けるだけでも、デマやフェイクに直撃されて冷静な判断力を失う危険性が低下するでしょう。また、自分の注意、すなわち興味をもっていることをむやみに発信したり悟られたりするリスクも忘れてはなりません。詐欺や買い占めのターゲットに自ら進んでなる必要はないのです。

 

もちろん、できることなら、日常的に感染症対策の実情や過去のパンデミックの事例などを公的機関から入手できる情報を中心に見ておくとか、何かあったときの対策(たとえば毎年起こるインフルエンザへの対応策)を習慣化しておき、いざというときに慌てずに対処できるように心がけておく、そういうように情報と付き合っておくことが望まれます。

 

 

 

【注2

 

悪魔祓いといえば、映画“エクソシスト”(1973年、USA)におけるメリン神父を思い出さずにはいられません。メリン神父を演じたマックス・フォン・シドー氏が今月8日に亡くなったそうですが、その紹介記事の一例として以下のサイトを挙げておきます。

 

https://article.yahoo.co.jp/detail/aa181f07578e2b1f03445e516b1bd131ce547397

 

映画“エクソシスト”の予告編はこちらです。126秒くらいから姿を現す長身の男が、メリン神父です。

 

 

 

文章作成:QMS代表 井田修(2020324日更新)

 

 

 

 

 

21 Lessons ~21世紀の人類のための21の思考~(3

 

 

 

(3)雇用の何が問題か?

 

 

 

 歴史学者としてユバル・ノア・ハラリは、歴史(過去)とテクノロジー(未来)についての考察を行ってきました。その彼が「今、ここ」(現在)の課題にはどのように取り組んでいったらよいのか、考察を深める上で最初に雇用の問題を採り上げています。それは、最も身近な課題だからです。

 

 

 

一九世紀には産業革命が、既存の社会モデルや経済モデルや政治モデルのどれ一つとして対処できないような、新しい状況と問題を生み出した。封建制や君主制や伝統的な宗教は、大工業都市や、住み慣れた土地を追われた男百万もの労働者や、絶えず変化する近代経済を管理するようには適応していなかった。その結果、人類は完全に新しいモデル(自由民主主義国家や共産主義独裁政権やファシスト体制)を開発しなければならず、それらのモデルを実験し、役に立つものと立たないものを選別し、最善の解決策を実行に移すのには、一世紀以上に及ぶ恐ろしい戦争と革命を必要とした。(中略)

 

二一世紀にITとバイオテクノロジーが人類に突きつけてくる課題は、前の時代に蒸気機関や鉄道や電気が突きつけてきた課題より、おそらくはるかに大きい。そして、私たちの文明の持つ途方もない破壊力を考えると、欠陥のあるモデルや世界大戦や血なまぐさい革命を容認する余裕はとうていない。(中略)

 

解決策の候補は、三つの主要なカテゴリーに分類できる。仕事がなくなるのを防ぐために何をするべきなのか? 十分な数の新しい仕事を創出するのに何をするべきか? 最善の努力をしたにもかかわらず、なくなる仕事のほうが創出される仕事よりもずっと多くなったら、何をなすべきか?(「21 Lessons5658ページより)

 

 

 

現代の変化は、改めて述べるまでもなく、極めて大きく急激なものです。1世代、2世代前では、個人ベースでは転職や階級の移動はあっても、職業そのものや階級といった社会的な役割そのもののカテゴリーには、そう大きな変化はおきなかったでしょう。〇〇革命や××維新といった歴史用語で語られるような大きな変化が起きた時期があったとしても、農民は農民でしょうし、農作業のやりかたや作業分担はそうそう変わらなかったでしょう。

 

ユバル・ノア・ハラリによれば、現在起きていることは、身分制度が変わるとか、職業分類が一新されるといったものではなく、仕事そのものがなくなるという変化です。

 

そこで、まず初めに「仕事がなくなるのを防ぐために何をするべきなのか?」という問いが発せられます。

 

現在起こっている変化は不可避であるとすれば、無理に従来の業務システムを温存して雇用を維持しようとすれば生産性の相対的な低下につながり、競争力が失われるだけであることは自明です。生産性の向上=数多くの人間が担ってきた作業をすべて止めること、であるならば、仕事がなくなるのを防ぐことは原理的に不可能です。

 

しかし、現在ある作業が仕事のすべてではありません。ITやバイオテクノロジーの発展も、まだまだその途上にあります。それらを発展させる仕事というものもあるはずです。ただし、そうした仕事が、仕事を求める人間の数だけあるのかというと、それは別の問題です。つまり、「十分な数の新しい仕事を創出するのに何をするべきか?」と問われます。

 

仕事を創出するのは、誰の仕事でしょうか。政府でしょうか、大企業でしょうか、それともITやバイオテクノロジーで成功したグローバル企業でしょうか。

 

一般には、仕事=雇用の創出と捉えれば、それは主に企業が果たすべき機能です。もちろん、政府や国際機関などの公的機関も雇用を生み出しはしますが、その原資は雇われた個人及び雇っている法人の納めた税金にほかなりません。

 

したがって、究極には、仕事は人を雇う法人(個人事業主を含む)が創出するものです。古典的な共産主義体制下の計画経済でない限り、創出される仕事の数と仕事を求める人の数が一致することはあり得ません。

 

さらに言えば、数の議論だけでよいはずもありません。仕事が創出されても、誰でもその仕事に就いて求める成果を生み出すことができるだけの能力や資質があるとは限りません。現実の労働市場を見れば、仕事と個人とのミスマッチはあるのが当たり前です。

 

また、雇用(有償労働)ではなくボランティア(無償労働)というものもあります。創出される仕事がボランティアを求めるものばかりであるとすれば、仕事が創出されたとは言えないのではないでしょうか。

 

ここで問題となるのは、雇用というよりも賃金(生活費)の保障をどうするのかという問題です。仮に生活を保障する手段が全国民への一律の現金給付(最低所得保障、ベーシックインカム)であるとすれば、雇用の数は問題とならなくなります。もちろん、ベーシックインカム以外の手段、たとえば生活を保障しうるサービスを全国民に提供することを実現しているのであれば、同様の効用がありますから、雇用の数は問題とはいえないでしょう。

 

したがって、「最善の努力をしたにもかかわらず、なくなる仕事のほうが創出される仕事よりもずっと多くなったら、何をなすべきか?」とう問いは、生活を保障する最善の努力はしたけれども、生活を保障することは雇用以外の手段では難しいという現実が、そうそうなくならない以上、どうしても雇用の数の問題は不可避であると読み替えることができます。

 

雇用の数の問題は、同時に雇用の種類や質の問題でもあります。ITやバイオテクノロジーがいかに発展しても、というよりも、テクノロジーが発展すればするほど、テクノロジーが求める種類の仕事に就くことができるのは、より新たな教育を受ける機会があった人に限られます。多くの人々は、新たなテクノロジーを学び身につけることは、不可能ではないにしても、容易なことではありませんし、時間とコストと労力を要することです。そこには、必ず失業の問題があります。

 

では、そもそも仕事とは何でしょうか。

 

注意したいのは、雇用がなくなるとか減少するといっても、なくなるのは作業であって仕事ではないのではないでしょうか。仕事は付加価値を生み出すものであるとすれば、付加価値を生み出すことができないところに問題があります。

 

これといって付加価値を生み出すことがないものであっても、作業としての雇用となることはあります。現に周囲を見渡せば、この作業に何の意味があるのか不明なものが相当あります。新型コロナウイルス(COVID-19)のパンデミックに迫られて在宅勤務やテレワークを行うことで、いかにこれまでの仕事のやり方に付加価値のない作業が多かったのか、改めて気づかされたことが多い方もいるでしょう。

 

著者が説くように付加価値の源泉がデータの大きさ(ビッグデータの規模)で決まるのであれば、ごく一握りのビッグデータを集約した者がすべてを手にするはずです。

 

しかし、データでとらえきれないところに仕事の価値があるのではないでしょうか。

 

たとえば、体調がすぐれず、自分が何らかの病気になったと自覚した人がいるとします。体温や脈拍、呼吸数などのデータを収集し、ときには血液検査キットを用いて詳細な検査データを分析するといったことまで、病院に行かずとも可能となる日はそう遠くはないでしょう。だからといって、医療に従事する人の大半が不要になるとは到底、思えません。

 

物理的に病気を治療することは、個々の遺伝子や生活習慣を把握しておけば、オーダーメイド治療が可能となるかもしれませんが、その治療方法を説明して納得してもらうことや、治療後のアフターケア(リハビリや社会復帰のためのメンタルケアなど)など、AIやロボットが行う場面が多いであろうと想像できても、本人や家族を安心させるには専門家と呼ばれる人間にいてほしいのではないでしょうか。最後は誰でも亡くなるわけですが、その死の判定を補助する機械やITは必要であっても、判断を下すのは人間であってほしいものです。

 

仕事には本来、ジョブ=職(勤め口)という生活の糧を得る手段という面と社会的分業の一端を担う面があります。後者は、社会(コミュニティ)とのつながりをもつための手段と言い換えてもかまいません。

 

雇用がなくなる=生活の糧を得る手段の喪失であるとすると、雇用対策とか生活保障の問題に過ぎなくなります。それはそれで大きな問題ではありますし、対応を誤れば、重大な社会不安を引き起こすことにつながる問題ですから、重大な課題であることは間違いありません。

 

同時に、雇用がなくなる=社会とのつながりの喪失でもあります。こちらは、仕事を通じて形成される人間のつながりが失われること、すなわち、社会やコミュニティの崩壊や、それらからの疎外につながる問題でもあります。次回はこの点について考えてみたいと思います。

 

 

 

文章作成:QMS代表 井田修(202046日更新)

 

 

 

 

 

21 Lessons ~21世紀の人類のための21の思考~(4

 

 

 

(4)新たなコミュニティ

 

 

 

COVID-19(新型コロナウイルス感染症)が迫るもののうち、一時的には数多くの雇用がなくなることには、一種のベーシックインカムである一律の給付金などで当座を凌ぎ、補助金・助成金などで時間を稼いで新たなサービスや製品を生み出すことにつなげていくことで、経済面での対応を進めていくことになりそうです。

 

しかし、アフターコロナ時代の働き方や生活様式の変更は、ついこの間まで言われていた「働き方改革」などとは比べるまでもなく、これまでの企業や産業の組織のありかたを抜本的に変えてしまうものでしょう。安全衛生上の理由以上にコストがかかりすぎるために、安全衛生上の理由以上にコストがかかりすぎるために、テレワークや在宅勤務が相当程度に普及し、出張や集合的なオフィスワークがかなり減少することは目に見えています。

 

今後は、従来のように同じ会社や団体に属する人々が特定の場所に同じ時間帯に集まって仕事をするという光景は、かなり珍しいものとなるでしょう。同じ組織に属するとはいっても、物理的に同じ職場(部屋)にいるとは限りません。同僚とはいえ直接会ったことは一度もない、ということが当然視される時代になるのです。

 

ところで、現実に多くの人々が属する社会=コミュニティというと、職場や学校ということになります。一人暮らしや引きこもりが多い現代では、家庭・家族というのは既にコミュニティとは呼ぶことが困難となっています。職場や学校というコミュニティですら、誰かと日常的に直接同じ空間を共有するといった経験は失われていくかもしれません。

 

言い換えれば、コミュニティとはいっても物理的に空間を共有するものではなく、いわばサイバースペース上の仮想的なコミュニティが大半を占めるようになりそうです。既に、オンライン飲み会などが普及し始めているなど、仮想的なコミュニティは現実となりつつあります。

 

 

 

人間には体がある。過去一世紀の間に、テクノロジーは私たちを自分の体から遠ざけてきた。私たちは、自分が嗅いでいるものや味わっているものに注意を払う能力を失ってきた。その代わり、スマートフォンやコンピューターに心を奪われている。通りの先で起こっていることよりもサイバースペースで起こっていることのほうにもっと関心を払う。(中略)

 

自分の体や感覚や身体的環境と疎遠になった人々は、疎外感を抱いたり混乱を覚えたりしている可能性が高い。(中略)自分の体から切り離されていては、幸せには生きられないだろう。自分の体にしっくり馴染めないなら、世界にしっくり馴染むことはできない。(「21 Lessons122123ページより)

 

 

 

私たちは物理的な存在であると同時に、心理的な存在でもあります。そのありようは、物理的な条件によって心理的な情況が左右されるものであることを、“自粛”という名の隔離生活を事実上強制されている現状を鑑みれば、痛感せざるを得ません。

 

DVやコロナ離婚などの家族間に発生している諸問題も、家族が一日中同じ室内にいるという物理的な状況が直接の契機となっているものでしょう。もちろん、家族や会社というコミュニティにもともとあった問題がCOVID-19(新型コロナウイルス感染症)で顕在化しただけではありますが。

 

このように、心の問題が物理的な状況の変化で生じるという、至極当然の事象についても、今回のCOVID-19(新型コロナウイルス感染症)は改めて気づかせてくれました。アルベール・カミュの「ペスト」を人々が読もうとするのもまた、感染症の流行という人類が生存する限り不可避な事象に直面した時に、どのような行動や心持ちでいればよいのか、そのモデルを見出したいが故に他ならないからでしょう。

 

心や行動の問題を物理的・化学的に解明しようとしたり統計学や行動科学などの手法で読み解くことを追求した20世紀は、一方でオカルトや超科学や新興宗教がマスメディアを通じて流行していった時代でもありました。

 

 

 

科学が心の謎を解明するのに苦労しているのは、効率の良い道具が不足しているからだ。多くの科学者を含め、大勢の人が心と脳を混同しがちだ。じつは両者はまったく違う。脳はニューロンとシナプスと生化学物質の物質的なネットワークであるのに対して、心は痛みや快感、怒り、愛といった主観的な経験の流れだ。(中略)

 

心を直接観察する現代的な方法がないので、現代以前の文化が開発した道具をいくつか試してみる手もある。(中略)これらの文化がさまざまに開発したさまざまな方法を一まとめにして「瞑想」と呼ぶ。今日、瞑想という言葉は宗教や神秘主義と結びつけられることが多いが、原理上は、自分自身の心を直接観察するための方法はどれも瞑想だ。(「21 Lessons403405ページより)

 

 

 

 このように、著者も心における科学の限界を指摘し、自らの心と向き合うための方法として瞑想を採り上げています。といっても、瞑想ですべてが解決するわけではないとも述べています。

 

 

 

瞑想が世界のあらゆる問題の魔法の解決策になるなどとは、私は断じて思っていない。世の中を変えるためには行動を起こす必要があり、こちらのほうがなおさら重要なのだが、団結する必要がある。五〇人が団結して協力すれば、五〇〇人がばらばらに取り組むよりもはるかに多くを成し遂げられる。もし本当に気にかけていることがあれば、それに関連した組織に加わることだ。今週中にもそうしてほしい。(「21 Lessons403ページより)

 

 

 

 ここでいう団結というのは、日本語でいう絆ではなく、問題解決に向けての組織作りとかプロジェクトチームで事に当たるというものでしょう。なんとなくわかったような、相互に理解ができたてよかったという程度のことで問題を置いておくのではなく、問題解決に向けて実際に行動に移すことを著者は要請しているのです。

 

 ここでいう行動は、たとえばSNSで情報を拡散することでも始めることが可能でしょう。アプリを使って、問題解決に取り組んでいる人々に資金や物資を提供することも、行動の第一歩かもしれません。

 

そうした行動の結果として、新たなコミュニティが形成されることにつながります。それは、従来のように、年齢・性別・民族・宗教・言語・地域・国家体制といったもので区分されたコミュニティではなく、ITとネットワークで問題意識や行動の違いにより形成されるコミュニティです。

 

 このように問題別に形成されるコミュニティ(イシュー・ドリブン・コミュニティ)の先駆けと言ってもいいのかどうかわかりませんが、趣味や嗜好の違いによって形成されてきたオタク文化も、いまでは国境や民族の違いを超えて広がり、半世紀前には思いもよらなかった関係が生まれています。イベントなどで直接会って語り合うことが困難になっても、ZOOMを通じてコスプレを互いに楽しむことが日常的に行われている現在、趣味や嗜好のコミュニティは自律的に運営されているものが数多くあります。

 

 その一方で、団結して行動する前に、そもそも本質や真の姿を再確認することも重要かもしれません。

 

たとえば、プロ野球などで行われた無観客試合では、ピッチャーが投げるボールのうなりやバッターが打った打球が飛んでいきフェンスや観客席を直撃する音に、改めて驚かされたのは筆者だけではないでしょう。大相撲も観客の歓声がないと、生身の人間がぶつかり合って発する音の迫力に驚愕しました。

 

これらは、観客という雑多な情報を削除したところに見えた、プロスポーツの本当の姿ではないでしょうか。無観客のスポーツ中継は、いわば社会的な瞑想とも言えるでしょう。

 

ITでは5Gがこれから本格的に展開されますが、実際に観客がいるかどうかに関係なく、臨場感をさまざまに変えることでスポーツ観戦の楽しみ方もまた変えることが可能となります。そこでは、無観客モードとか満員で熱狂する5万人の観客モードといったように、離れた人々がオンライン観戦を通じて体験を共有することになります。実際にスタジアムや会場に行かなくても、オンラインの観客同士が架空の観戦者として参加することでウエーブや応援歌などもいっしょに楽しむのです。これは仮想的な団結といってもいいでしょう。

 

実際に現場で参加することはない以上、身体的環境や体感といったものは同時に共有することはあり得ません。しかし、ITを通じて共有された体験を通じて形成されるコミュニティも、次々と生まれてくるのです。

 

これらは、従来の仕事や地域社会を通じて形成されてきたコミュニティとは異なり、フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションを前提としたものではありません。当面は、こうして新たに形成されていくコミュニティにおいて、人がどのように感じ、考え、行動するのか、実験をしながら生活していくことになります。

 

ITにより共有された体験を通じて形成されるコミュニティは、電源をオフにすれば瞬時にコミュニティから離脱することができるという点で、従来のコミュニティとは比べられないほど容易にコミュニティのメンバーシップを自ら破棄することができます。故に、新たに形成されていくコミュニティは不安定かもしれませんが、コミュニティからの雑音から隔絶された状態を作り出すことも容易です。いわば瞑想状態にすぐに入ることができます。

 

固定的な身分制の封建社会を例として持ち出すまでもなく、20世紀においてもまだまだ個人は会社・職業・家族・地域社会・国家などの特定のコミュニティに縛られていた事実を想起すれば、個人とコミュニティとの関係を多種多様に容易に変化させることができる社会というのは、極めて21世紀的な事象です。個人とコミュニティの関係が容易に変化するということは、同時に、失業者やホームレスとは異なり目に見えない形でコミュニティに属さない個人が現れてくる社会でもあります。

 

COVID-19(新型コロナウイルス感染症)は、こうした動きをより明確にし、加速させる契機となるのでしょう。

 

 

 

文章作成:QMS代表 井田修(2020513日更新)