「皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上・下)」にみる無から有を生み出すリーダーシップ(5)

「皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上・下)」にみる無から有を生み出すリーダーシップ(5

 

 前回まで皇帝フリードリッヒ二世がさまざまな施策をもって、軍事力を保有・増強し、人材を育成・登用し、法律や裁判などを制度面で整備し、多言語間の翻訳を通じてイタリア語の基礎を形作ってきたことをご紹介してきました。それでは、フリードリッヒ二世は何と戦うためにこうした施策を実施してきたのでしょうか。

 第六次十字軍を率いたのですから、戦う相手はイスラム教徒、その代表としてのスルタンでしょうか。それとも、皇帝に従おうとしないドイツやイタリアの封建諸侯たちや共和国諸国でしょうか。または、周辺諸国、特にフランス王やイングランド王、スペイン王などヨーロッパの王侯たちでしょうか。

 実は彼らとは戦うどころか友好関係を維持・発展させていたものも珍しくはありません。時には軍事的に衝突することはあっても、決定的な対立というほどのものはありません。

では、最も長期にかつ最も徹底的に戦ったのは何かと問えば、それはローマ法王でした。その争点を一言でいえば、叙任権闘争というのが通説的な理解ですが、本書では次のように指摘します。

 

 一二四五年のリヨン公会議とは何であったのかと問われれば、私ならば、「ローマ法王要注意」とした信号が点滅するようになる最大の機会になった、と答えるだろう。(中略)

 中世を震駭させた法王と皇帝の闘争は、司教の任命権はどちらにあるかという、叙任権などをめぐって争われたのではない。皇帝や王や諸侯という世俗の統治者たちのクビをすげ替える権利は、ローマ法王にあるのか、それとも否か、をめぐる闘争であったのだ。それも、科学的な方法で「否」が証明される(注4)二百年も前に。そして、政教分離が当然と思われるようになっている現代からは、八百年も昔に。(「皇帝フリードリッヒ二世の生涯(下)」298ページ)

 

 ここでいうリヨン公会議というのは、インノケンティウス四世が異端裁判を通じてフリードリッヒ二世を異端として裁き、正しいキリスト教徒であることを否定し、皇帝位とシチリア王位を剥奪することを決定した場です。この場にはフリードリッヒ二世の代理は送り込まれましたが、皇帝本人が姿を現す前に予定を繰り上げて裁判を終わらせました。そして、法王は安全と思われる修道院に逃げたのです。

ここに至るまでに、ローマ法王、特にグレゴリウス九世とインノケンティウス四世とは武力を用いた戦いをも含む闘争が展開されました。3回の破門及び異端裁判の経緯を見れば、正に闘争と呼ぶのがふさわしいことが理解できます。

 

最初の破門

12271118日発布(公表)

前法王ホノリウス三世からの懸案事項であった第六次十字軍を編成する途中に、船団内で発生した疫病(皇帝から陸上部隊の指揮を任される予定のチューリンゲン伯も死去)のために、編成や進軍を中止し、皇帝も療養に入った。

自らの要請を無視されたような状況となった法王グレゴリウス九世は、皇帝の使者に面会することも手紙を受け取ることも拒否し、約束した期日に十字軍遠征を開始しなかったことを理由に皇帝を破門に処した。

 

2度目の破門

1228323日発布(公表)

最初の破門に対する皇帝の反論に怒り心頭となったのか、法王グレゴリウス九世は再びフリードリッヒ二世を破門に処した。その理由は、ローマ法王に対する恭順の意の欠如であった。破門された皇帝の取るべき態度は「カノッサの屈辱」のように、法王に対して33晩、許しを請うて雪の中に立ち尽くすものと考えていたのだろうか。

今回の破門のなかで、破門された者(フリードリッヒ二世)が率いていく軍隊は十字軍ではない(故に行軍を妨害したり軍の物資を略奪してもよい)と明言してしまったために、十字軍の遠征を命じたローマ法王自身の指令に矛盾しているのではないかと諸侯や市民などは訝しむことになる。

結局、破門の現実的な影響はあまりなく、フリードリッヒ二世は十字軍を率いて遠征に赴く。ローマ法王直轄の軍事組織であるはずの聖堂(テンプル)騎士団や病院(ホスピタル)騎士団も、形式的にはチュートン騎士団の団長ヘルマンを総司令官とする皇帝軍の傘下に入る。

そしてカイロのスルタンであるアル・カミールと話し合いのうえ、イスラム側との講和成立・聖地イェルサレムの恢復・交通と通商の安全保障(巡礼者が安全に通行できる)など、1229年に講和が成立した。

1230年に「平和の接吻」を交わし、破門は解かれた。

 

3度目の破門

1239324日発布(公表)

皇帝フリードリッヒ二世の交渉役として動いていたチュートン騎士団長ヘルマンが病気で不在となり、ローマ法王グレゴリウス九世との間が不調になったことも皇帝と法王の不和の一因であろうか。

2度目の破門と同様の理由に加えて、第六次十字軍の経緯を問うものも付加された。

皇帝からの反論などもあり、法王の思惑どおりには進まないため、1241年開催予定のラテラノ公会議でフリードリッヒ二世を「異端」と認定し皇帝位を剥奪するつもりでいたのだが、メロリアの海戦で公会議出席予定者(大司教、司教、修道院長などの高位聖職者たち)が皇帝に囚われてしまい、公会議そのものが開催できなくなった。更にローマ法王領への侵攻を招く中、グレゴリウス九世が死去した。

その後、22ヶ月に及ぶ法王不在期間が続く。

 

破門から異端へ

次のローマ法王に選出され就任したインノケンティウス四世は、皇帝フリードリッヒ二世との直接会談を約したが、会談直前にローマを脱してリヨンに逃亡した。その後、リヨン公会議を開催し、フリードリッヒ二世を対象とする異端裁判を開催し、異端として認定する。

その後、チューリンゲン伯ラスペをドイツ王に、オランダ公ウィルヘルムを皇帝とするも、いずれも軍事的にドイツ王コンラッド(イェルサレム王女ヨランダとの間に生まれた嫡子の次男)に敗北した上、聖職者からの支持も十分に受けられないなどして、失敗に終わる。

フリードリッヒ二世の皇帝及びシチリア王としての統治は続く。

 

 こうした経緯を現代から見れば、結局のところ、フリードリッヒ二世がローマ法王との闘争に事実上勝利したと見做すことができます。ただ、次に引用するように、異端裁判という仕組みをキリスト教世界に導入し、歴史に見られるように甚大な弊害が多くの人々に降りかかる点で、リヨン公会議の時点で異端裁判そのものを叩かなかったのは、勝利を徹底しきれなかった憾みがあります。

さて改めて、「異端」と「破門」の違いについて本書の説明を見てみましょう。まず、手続き面で言えば、「破門」はローマ法王の判断で処することができますが、「異端」となると裁判の手続きを経て裁判長が判断を下すことになります。

 

この法王グレゴリウス九世が歴史に名を遺す人になったのは、これ以降始まる皇帝フリードリッヒ二世との熾烈な抗争による。だが、それだけではない。この五年後の一二三二年になって設置される「異端裁判所」の創設者としても、ヨーロッパ史に名を遺すことになる。嫉妬や羨望の産物であることのほうが多かった魔女裁判や残酷極まりない拷問によって、その後長くヨーロッパ社会を震えあがらせることになる「異端裁判所」は、カトリック教会の長であるローマ法王は、皇帝のみでなく信者全員を照らすべき太陽であるべき、と信じていたこの法王によって創設されるのである。(「皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上)」242245ページ)

 

次に、「破門」と「異端」の意味の違いを見てみましょう。

 

「破門」は、日本で言えば「村八分」である。いや、破門に処せられた者とはあらゆる関係を絶たねばならないというのがキリスト教会の決まりであったから、「八分」ではなく「十分」である。だが、最悪の場合でも住民(コミュ)共同体(二ティ)から追放されるぐらいで、死刑にされるとまでは決まっていなかった。

ところが、「異端」となるとちがってくる。

イスラム教徒もユダヤ教徒も仏教徒も、キリスト教徒にしてみれば「異教徒」だ。自分たちが信ずる宗教とは異なる宗教を信じている人々、というだけの存在であり、差別視はしても、いまだ真の教えに目覚めていない哀れな人々、という意味での差別でしかなかった。

反対に、「異端の徒」となると、「異教徒」が他人であったのに反して身内の問題になる。同じくキリスト教の信者でいながら、その信じ方が、キリスト教会の定めた信じ方と異なっている、と断じられた人々を指すのだから。それゆえに、異教徒よりは、キリスト教のコミュニティにとっては有害な存在になる。(「皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上)」364365ページ)

 

宗教的権威はもとより、皇帝を任命するという政治的な権力をも持つローマ法王に対して、世俗のことは皇帝に、信仰に関することは法王に、という一種の政教分離の考え方を徹底するフリードリッヒ二世が対立するのは、必然と言えます。ただ、フリードリッヒ二世が若いうちは皇帝としても未だ実力不足で、ローマ法王の側にも余裕があったせいか、インノケンティウス三世やホノリウス三世が皇帝を破門にすることはありませんし、新たな十字軍の派遣についても要請するに止まっていました。

インノケンティウス四世の二度にわたる破門に至る経緯を見てみると、自分の方が上だと思っていたのだろうと推察されます。こちらの要請におとなしく従っていればいいものを、要請を無視したり尤もらしい言い訳で事態を遅延させたり、時には理路整然と反論したりしてくる“部下”というのは、現代でもカチンとくるものでしょう。

例えは不適切かもしれませんが、ホールディング・カンパニーのCEOが、傘下の事業会社のうち最も有力な基幹会社の実力者であるCEOから、全社戦略やホールディング・カンパニーからの要請事項について無視されたら、そのCEOは怒るでしょう。そして、実力者とは言え、当該事業会社のCEOを取締役会で解任したり、辞任に追い込んだり、ホールディング・カンパニー内で左遷したりするでしょう。

同様の行為が「破門」です。ローマ法王自身は軍事力を保有していないので、自ら軍事的に攻め入って懲らしめるわけにはいきません。法王の武器は宗教的権威に基づく「破門」というわけです。

本来は、法王と皇帝は協力してキリスト教世界を他の外敵から守るべき存在のはずです。現代の闘争でもそうですが、外敵との戦争はそれはそれで悲惨であったり惨たらしいものであったりしますが、戦闘の苛烈さという点では内戦のほうがひどいのではないでしょうか。また、外敵との戦争はいつか終止符が打たれるものですが、内戦は戦後もさまざまな悪影響が残り続けます。それが新たなクーデターを生じさせたり、国家や社会情勢を安定させるという名目で独裁が生まれる契機ともなります。

 

企業でも同様のことは起こります。ライバルの同業他社との競争は激しくても、一定のルールや節度をもって行われるものです。しかし、本来は味方であるはずの元請け業者や納入業者などとのトラブルや紛争には、不法行為や不正が横行することでしょう。まして、社内での闘争、たとえば出世競争や派閥争いとなると、表立っては友好的であっても腹の底ではどのような考えが蠢いているのかわかりません。それらが表面化する時には、いきなり役員解任や懲戒解雇といった「破門」や「異端」を凌ぐ扱いが待っているのです。

考えてみれば、社内のリーダーという立場こそ、軍事力も宗教的権威もないのは当然ですが、これといった形だけの権限規定やマニュアルはあっても、実態としては単に社内政治のパワーゲームだけで成り立つものでしょう。規模の大きな組織のリーダーほど、さまざまな委員会やスクリーニングプロセスを経るとしても、結局は社内力学で決まるものです。そうした存在が、本当の権威、特に社外からのパワーに挑まれた場合は、ローマ法王を二度も窮地に追い込んだフリードリッヒ二世以上の政治力が必要になるでしょう。

枠組みを業種業界という括りで考えてみると、イノベーションと呼びうるような真の価値創造を行うには、同業他社から異端呼ばわりされるくらいでないと意味がないことが予想されます。既存の業界秩序や当該業種における常識に同業者でありながら正面から反旗を翻すという行為は、それがいかに論理的に正しいことであっても(むしろ正しいが故に)、既成の枠組みの中で利益を得ている他社からすると、思い上がりにしか見えないでしょう。

まったく無関係なところから進出してくる「異教徒」の新興ライバルよりも、同じ業界や事情が分かっているはずの近しい業種から進出してくる「異端者」的な競争相手のほうが、競争関係は激しくなることに相違ありません。企業間競争と言えば、関係が近い企業同士のほうが徹底的な叩き合いになりがちです。

そうした苛烈な競争に迫られたなら、時に禁じ手を使うことも躊躇してはなりません。ローマ法王相手に軍事力を使うのは禁じ手かもしれませんが、その手段に訴えない限り、相手は闘争を諦めないのであれば仕方はありません。

やるべき時は、タブーであっても、やるべきことをやるのがリーダーです。前例の有無や常識や枠組みに囚われては、現状を打破することはできません。自らの論理や仮説や主張に正当性があると思うのなら、そしてそれを関係する人々に説いて理解が得られるなら、やるべきことをやるのです。

もし、敵対するはずの勢力の中にもこちらの主張に分があると思う人々が出始めれば、好機が到来したと判断すべきです。リーダーシップとは身内だけに向けられたものではありません。味方に説明すると同時に、同じものを敵の中にも散布して、こちらの根拠や主張を説いて影響力を及ぼすこともリーダーのコミュニケーションとして忘れてはなりません。

 

(6)に続く

 

【注4

ローマ法王がローマ皇帝から寄進を受けたものがローマ帝国の西方であるとし、それ故に神聖ローマ帝国の皇帝の任命権をもつ=ローマ法王が皇帝に優越する、という主張の根拠とされた4世紀のものとされる文書「コンスタンティヌス大帝の寄進書」が、ラテン語の用法の違いから実は後世の偽作であることが15世紀に明らかにされ、18世紀に偽書と確定されました。

コンスタンティヌの寄進状 - Wikipedia

 

作成・編集:QMS 代表 井田修(2022823日更新)