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「皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上・下)」にみる無から有を生み出すリーダーシップ(6)

「皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上・下)」にみる無から有を生み出すリーダーシップ(6

 

 どんなに優れたリーダーであっても、いつかはその地位を別の誰かに引き継ぐ日が訪れます。いわゆる後継者問題です。ローマ法王との長く続く争いを優位に進める一方で、皇帝フリードリッヒ二世は多くの子女を活用することで、自らのリーダーシップを展開し次の世代の人材育成にも資するものを生み出していきました。

 まず、フリードリッヒ二世の子女たちがどのように生まれて政治的に活躍していったのか、生まれた順に見てみましょう。なお、ここで採り上げている者以外にもフリードリッヒ二世には子女がいましたが、幼少期に亡くなったため本稿では言及していません。

 

嫡子(長男)ハインリッヒ

生母はアラゴン王女で最初の皇后であるコンスタンツァ。

シチリア王、シュワ―ベン公爵、ローマ王(ドイツ皇帝とともにドイツの共同統治者)。

ドイツにおけるハインリッヒの統治への不満が高まる一方、グレゴリウス九世に唆されてロンバルディア同盟(反皇帝派)と結んで反乱を起こしたため、目をつぶされた上で終身刑に処せられた。その7年後に自死。

 

庶子エンツォ

生母はドイツ貴族の娘アデライデ(ウルスリンゲンのアーデルハイド)。

サルディーニャ王。

ボローニャ軍との戦いで捕らえられて長く幽閉される。

 

庶子アンティオキアのフェデリーコ

生母はアンティオキアのマリア。

アルバ伯、フィレンツェ共和国のポデスタ(行政長官)、トスカーナ地方の統治(代理)として統治を行いながら、軍役に従事。

 

嫡子(次男)コンラッド

生母はイェルサレム王女で二番目の皇后であるヨランダ。

ドイツ王。フリードリッヒ二世の筆頭相続人に指定されて神聖ローマ皇帝(コンラッド四世)とシチリア王の位に就く。

 

庶子リカルド

生母はパレルモ大司教ベラルドの姪マンナ。

キエーティ伯、スポレート公(どちらもイタリア中部の戦略的要衝の地)として統治を行いながら、軍役に従事。

 

庶子(後に嫡子)マンフレディ

生母は数年来の愛人ビアンカ・ランチア。後に生母がフリードリッヒ二世と正式に結婚したため、嫡子となる。

ターラント公。次男コンラッドの死後、シチリア王に就く。

 

嫡子(三男)エンリコ

生母はイギリス王女(かつ現国王の妹)で三番目の皇后であるイザベル。

イェルサレム王。フリードリッヒ二世の相続権第2位。

 

女子たち

嫡出の娘たちは、チューリンゲン方伯アルブレヒト二世(後にマイセン辺境伯)、ニカイア帝国皇帝ヨハネス三世、と結婚した。非嫡出子の娘たちは、カレット侯爵、アチェッラ伯爵、エッチェリーノ三世・ダ・ロマーノ(ヴェローナの武人)などに嫁いだ。なかには、ビアンコフィオーレ(生母は女官アナイス)のように婚姻関係が不明なものもいる。

 

 嫡出子は王位に就いたり皇帝に嫁いだりし、庶子(非嫡出子)は戦略上重要な土地の諸侯に封ぜられたり有力者と婚姻関係を結んだりしていることがわかります。嫡出かそうでないかの違いは、就く(嫁ぐ相手の)地位の差異となって現われていますが、政治的に重要な役割を果たすことがいずれも期待されています。

 注目すべきは、長男ハインリッヒの扱いです。

父に継ぐ統治者として期待されてはいましたが、ドイツの諸侯との間で政治的な緊張関係を作り出してしまっただけでなく、皇帝と敵対するグレゴリウス九世やロンバルディア同盟と手を結んで軍事行動に打って出たために、皇帝に対する反逆罪に問われました。

皇帝の長男といえども、その罪は軽減されず、盲目とされ幽閉されます。他の諸侯や貴族などが同様のことを行った場合と同じ扱いをせざるを得なかったでしょう。厳しいようですが、ダメなものはダメ、と公平に事態に対処することで、フリードリッヒ二世は身内を贔屓しないリーダーシップを体現しています。

 もうひとつ注目したいのは、嫡出子と庶子の違いです。

後継者という意味では、嫡出の男子が優先するのは当時としては当然のことでした。ただ、庶子といえども皇帝を支える有力な臣下のひとりとして活躍することが期待されていることは、明らかです。

日本の場合、古代や中世、そして近世どころか近代でも一部は、嫡子か庶子かということ以上に生母の出自が子供の将来性に大きく影響することがあります。生母が低い身分であれば、最初から政治的な影響力をもてないことも珍しくはありません。

その点、フリードリッヒ二世の場合、側近中の側近である大司教ベラルドの姪の子であっても、最愛の愛人ビアンカ・ランチアの息子であっても、王女を生母にもつ嫡子であっても、フリードリッヒ二世が生存している間はすべて皇帝を直接支える役割を公平に与えられています。死後も遺言に従って、皇帝位の相続順位にこそ差はあっても、それぞれの役割が指定されています。

 

ちなみに、後継者の世代では、コンラッド四世が早期に亡くなり、フランス王ルイ九世の力が強まるなどして、皇帝フリードリッヒ二世の政治体制は瓦解していき、いわゆる大空位時代へと移行します。

こうした結果だけを見れば、後継者への継承を含めた政治体制作りという点ではフリードリッヒ二世のリーダーシップは未完成だったと言わざるを得ません。言い換えると、封建制の支配体制から政教分離に基づく集権的な法治国家へと転換しようとしたフリードリッヒ二世のリーダーシップは、後継者に引き継いでも運用可能なレベルにまで完成度は高まっていなかったことが実証されています。

 後継者をどうするのか、その決定方法や権限移譲プロセスなども含めて、政治体制も企業組織も未だに正解への道筋も見当たらないでしょう。こうした後継者問題を指摘される企業は、特に創業者世代から次に繋ぐ際に数多く見られます。

 世襲が良いかどうかは別として、フリードリッヒ二世のリーダーシップのありかたから少なくともひとつ確言できることは、自らが選んだ後継候補者であっても、問題行動があったり期待される実績を挙げることができなかったりした際には、後継候補から除外しなければならないことです。

もし、後継者としてダメだということが明らかになった時点で即座に後継者候補から外さなければ、現在の体制を支えるフォロワーシップがもたなくなる虞が大きいからです。世襲であるならば、この点は余計に厳しく判断すべきでしょう。

一方、現代では相続権としては非嫡出子の権利も認められているとしても、同じ組織で嫡出子や庶子がいっしょに仕事をしているというのは、(非公式にはあっても)公式に発表して行っているところは、日本では中小企業であっても聞いたことがありません。夫婦や兄弟姉妹、親戚などで同じ会社に勤めている例は相当数ありますが、どのような実例でも婚外関係や庶子の存在が明示された上での関係に基づくものではないでしょう。

そもそも、妻妾同居のように子供たちの母親たちを含めて同居したり、母親が異なる子供たちがいっしょに教育を受けて育つといった環境がない限り、実子だからといって庶子を後継者にすることは、昔もそうはなかったのではないでしょうか。皇帝フリードリッヒ二世のように、領国がヨーロッパに広く分散して存在すると、皇帝の本拠地(宮廷)と皇后と相続順位第1位の者がいるところは別の地域であるのが普通でしょう。皇帝の愛妾と庶子がいるところもまた別の地域でしょう。

ちなみに、フリードリッヒ二世は嫡男以外の子供たちを自分の身近に集めて教育したと言われています。これは、後継者候補の育成という面よりも、政治体制整備の一環として、政治的にも軍事的にも有能な諸侯を各地に配置することが必要であり、そのための人材育成ではあったと思われます。

実はローマ法王という制度(ローマ法王庁を中心とするカソリックの組織)のほうが、後継者育成の面ではフリードリッヒ二世の政策よりも優れていたと言えるかもしれません。

ローマ法王は世襲ではなく、枢機卿のなかから互選で選ばれる慣習が長年続いてきたために、一人の法王が亡くなっても次の法王がその後を継ぐことで、制度とリーダーシップの継続性が形式的にも実質的にも担保されていたからです。とはいえ、グレゴリウス九世が亡くなりインノケンティウス四世が法王位に就くまで2年弱の空位期間があったり、そのインノケンティウス四世がローマからリヨンに逃亡するといった、破綻しかけたリーダーシップではありますが。

少子化が進んでいる現状では、嫡子(特に嫡男)に後を継がせるということは、ほぼ自動的に特定の個人を後継指名することを意味します。もし、その後継者が不適格であることが明らかになった場合のプランBを公式化するのであれば、最初から嫡子に限定せずに広く後継者候補を組織の内外で探すほうがよいかもしれません。

 

(7)に続く

 

 

作成・編集:QMS 代表 井田修(202295日更新)