時計の針を30年ほど戻してみます。バブル以前、昭和の最後の時期です。
この頃に筆者は学生から社会人になりました。実際就職してみた職場は、今考えると、セクハラ、パワハラ、いじめなどが、ごく当然のこととして横行しているものでした。
先日、久しぶりに会った元同僚も、しみじみと語っていました。
「Aさんには、毎日潰されそうになってたよ。いまで言えば、パワハラだけど、あの頃は耐えるしかなかった。」
同期で同じAさんの下で仕事をしていた私の記憶では、この元同僚が今の言葉で言えばパワハラに相当する被害を受けていたようには見えませんでした。少なくとも、本人がそう受け止めていたのは意外でした。
その理由を考えてみると、筆者を含めた周囲の社員たちは、こういう指導方法があるのかなあ、という程度の認識しかもっていなかったからです。Aさんは他の同期の社員にも、過剰な仕事を短期間で与えるなど、いじめなのか鍛えているのか分からない指導方法をとっていました。さらに、部下や若手の社員だけでなく、同じレベルの同僚たちともしょっちゅう衝突しており、新入社員が喧嘩を止めに入るくらいでした。要するにも、この人なら仕方がないという見方です。
実際、こうした行動を、程度の差はあれ、他の中堅クラスの社員も取っていたため、筆者の目には、そして直接関係のない社員たちの目には、こう映っていたように思われます。「ああ、またいつものことか。関わり合いになるのはやめておこう。」
また、いわゆる人事慣行の中には、いまでは法律違反に問われそうな事項も多々ありました。たとえば、結婚退職する女性社員には割増退職金が支給されるとか、部下を自殺や病気に追い込む常習者をそのまま管理職の立場に置いておくとか、今であれば大問題になることは間違いありません。
日常的には、酒臭いまま(なかには飲みながら)仕事をしている人も、少数とはいえ、存在しました。そして、それを咎める場面を見たこともありませんでした。
社員旅行、忘新年会や歓迎会・送別会ともなれば、酔う前からセクハラが自然に行われ、時間が経てば泥酔して暴力沙汰を起こしたり強制猥褻としかいいようがない行為に及んだりということが、特に問題視されることもなく、繰り返されていました。
こうした環境が日常となっていると、今の言葉でいうパワハラは問題として認識されないものでした。
職場の物理的な環境も今とは大違いでした。
まず、机が部門ごとに島型に配置され、部門長だけが正面を向き、他の社員は2列で向かい合う形式でした。部門長に近いほど序列が上で、新人が遠くに配置されていました。それよりも部門長から遠く離れたところに、女性の一般職の社員や非正規の社員(ほぼ全員女性)の席がありました。
つまり、机の配置ひとつをとっても、男性社員の間の序列や男尊女卑の職務分掌を前提としていることがわかります。当時は、それが当然のことでした。
また、自席でたばこを吸いながら仕事をしている人も、当たり前に存在しました。喫煙しながら仕事をしているほうが多かったかもしれません。その喫煙者の机上や席の周囲には、書類や資料(レポートや書籍など)が散乱したり堆く積み上げられていたりするのが日常的な光景でした。今思うと、よく火事を起こさなかったと感心するほどです。
現在では、そもそも自席というが概念からしてない職場も多いでしょう。職場自体がフリーアドレスであったり、そもそも職場におらずテレワークとなっている社員や直行直帰が基本の営業社員もいます。もちろん、職場が喫煙可というところはないでしょう。
30年以上の時間の経過があるとはいえ、こうした状況を当然と思っていた人が、まだまだ社会人のなかには数多く存在します。もちろん、その人たちの行動は変わってきてはいるでしょうが、頭の中は若い頃に体験したことや当時の価値観のままかもしれません。
言い換えれば、年齢が比較的高い人ほど、昔の価値観を引き摺ったまま、今も仕事をしているのかもしれません。欧米だけの話ではありません。顕在化がより遅れているとすれば、日本のほうが大きな問題を抱えているのかもしれません。そして、そのまま労働人口の高齢化を迎えているわけですから、問題の大きさ・深刻さに思い至ります。
本来であれば、30年以上の時間があったのですから、少しずつ漸進的に行動や価値観を見直すことができたはずです。しかし、それができないのが人間です。特に地位が高いとか権力があるといった属性をもつ人ほど、自分の行いや考えを見直すことは容易ではないでしょう。何しろ、日々の仕事のなかでは成功者として扱われているわけで、行動や考え方を変える必要は実感できません。
ここに陥穽があります。
作成・編集 QMS代表 井田修 (2017年12月7日)