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人的資本経営時代に給与を適切に調整するには(4)

人的資本経営時代に給与を適切に調整するには(4)

 

人的資本経営を実現する人材戦略で第三に検討すべき事項として『リスキル・学び直し』があります。一般にリスキリングといいますが、これは報酬制度と直接結びつくものではありません。特に日本のように、属人給的な要素の強い給与・賃金の運用慣行が普通に見られる状況では、職務上必要なスキルを再開発するという意味でのリスキリングは、雇用には影響することはあっても、給与や賃金を決定する強い要素とは言えないでしょう。

原理的に言えば、職務給体系の人事制度の下では、職務変更を行うためにリスキリングを行って、(本人にとっての)新たな知識やスキルを身につけて、現状の職務よりも職務グレードの高い仕事に就くことができれば、給与も上がります。

米国で典型的に見られるように、同じ企業の中で職務グレードが上がるというのは、通常は同じ職務系統内での昇進を意味します。つまり、リスキリングというよりも、担当者からマネージャーへ、マネージャーからオフィサーへと管理スパン(職務権限)が拡大することで、昇進し昇給することになります。

従って、同じ企業内で昇進するチャンスがないと思えば、他社に転職することになります。その際に、労働市場がタイトで求職者よりも求人数が明らかに多い時などは現状と同じ職務でも昇給する場合もあります。そうでなければ、MBAを取得するために経営大学院で学び同じ職種でも他社でマネージャーに就任するとか、営業経験しかない人がIT技術を学んで営業自動化のコンサルタントに転じるといった形で、報酬をアップさせようとします。つまり、リスキリングを通じて報酬増を実現するのです。

ただし、全てのリスキリングの試みが報酬の増加につながるわけではありません。MBAを所得しても、不況により労働市場が活発でないこともありますし、そもそもMBA不要論などで習得したはずのスキルの市場価値が低下してしまう事態もありえます。リスキリングには時間と資金と労力が必須ですから、せっかくの投資が無駄になってしまう虞は絶えず付き纏います。

日本でも、仕事によっては、何らかの公的資格を取得しなければ、担当する職務や負うべき職責が極めて限定的で、報酬面でも多くを望めない場合もあります。法律事務所における弁護士資格を有する者と事務職員、監査法人における公認会計士の有資格者とそうでない者、更にはっきりと医療法人では医師免許取得者でないと代表者(病院長)になれないといったものなどがあります。

これらは、公的に認証する仕組みを通じて職務上必要なスキルの習得が行われたことを示し、その結果、相当程度の報酬が得られることにつながります。未経験者や無資格者であっても、何らかの形で当該専門分野の知識やスキルを身につけ、そのことが公的資格の取得といった形でリスクリングに成功したと実証できれば、報酬はついてくるはずです。

ただし、いかに取得が難しい公的資格であっても、その資格を使って仕事をすることが必須な職業や職場でなければ、リスキリングに成功しても報酬が上がることが約束されているわけではありません。ITエンジニアとして営業管理システムを開発するのに、医師であろうと弁護士であろうと、その公的資格はITの開発プロジェクトに関するスキルとは何の関係もありませんから、医療法人や法律事務所からリスキリングしてITエンジニアに転職できたとしても資格は無関係なのです。まして、DX人材とかAIエンジニアを求めている企業にとって、DXAIに関わらないスキルや知識は、世間的にいかにすごいものを保有しているとしても、それで報酬が上がることはありません。

 

ところで、「人材版伊藤レポート2.0」において「リスキリング・学び直し」というのは、DXで経営を変革する人材を生み出すことを念頭に置いているようです。そこで、過去10年間で出現し職種として確立してきたDX関連の仕事として、データサイエンティストを例にとって、リスキリングのありかたを考えてみましょう(注4)。

データサイエンティストは、10年ほど前はビッグデータを理解しビジネスに活用していくために、プログラミングとアナリティクス、更に実験スキルを兼ね備える人材というもので、2003年の論文(注5)の中では「ビッグデータの世界で何かを見出そうとする、好奇心旺盛で訓練を積んだ上級専門職」と定義されていました。

その後の10年ほどの間に、求人数も飛躍的に増え、報酬も年収20万ドルほどに上昇しているようです。

しかし、データサイエンティストを取り巻く状況は多くの問題を抱えたままであるようです。仕事の時間の大半を、本来の科学的な手法に基づいたデータ分析とそこから得られる新たな知見の活用よりも、相変わらずデータのクリーニングと前処理に費やしていたり、AIを活用して多少の高度化は進んだものの、データ管理に手間がかかっていたりします。

その上、データドリブンな企業文化はいまだに十分に醸成させておらず、データサイエンティストを人材として活用しきれている組織が少なく、報酬に見合った貢献ができないままです。

社会的にはデータサイエンティストをフルに活用できているとは言えないまでも、データサイエンティストという仕事は社会的に制度化されつつあります。たとえば、データサイエンティストに求められる学位というと、以前は特に専門の学位がなく、定量的な分析技術が必要な学位(自然科学全般や社会科学のうち統計的な手法が必要な分野など)の出身者を採用していたため、実験物理学や天文学・気象学などのいわゆる理系出身者もいれば、心理学者もいました。今はデータサイエンスがひとつの学問分野となり、必要な学位単位も整備されて、大学や大学院で公式に位置付けられています。

職務の定義の面でも制度化が進展しています。

10年ほど前のデータサイエンティストと言えば、ユースケースの概念化、事業面及び技術面のステークホルダーたちとのやりとり、アルゴリズムの開発と生産への実装など、データサイエンスをビジネスに活用する全ての事項を担う人材と考えられていました。

現在は、機械学習エンジニアやデータエンジニア、AIスペシャリスト、アナリティクスとAIの翻訳者、データ志向のプロダクトマネージャーなどに細分化・専門化しています。

実際、一人のデータサイエンティストがこれらの職務を全て担うことは困難で現実的ではないことが理解されてきましたから、職務の細分化・専門家といった動きが見られるのでしょう。これらのデータサイエンティストとその関連の職種は、一部には認定資格を整備する動きもあります。

こうして制度化の進展が見られるものの、現実には開発された数多のアルゴリズムが実装されることなく放置されたり、実装されても当初の目標を達成するような結果を出せずに終わってしまう例が後を絶ちません。その一方で、コロナ禍のパンデミックに対応するために社会的に有意義な実装が行われたことも事実です。

また、技術的にも10年前とは大きく異なる傾向が見られます。たとえば、当時のデータサイエンティストに必須だったコードを書く知識とスキルは、必ずしも必要不可欠というわけではなくなっています。コードを機械的自動的に作成される技術も生まれているからです。

以上、概略を紹介したように、データサイエンティストという同じ仕事であっても、10年も経てばその内容や仕事を取り巻く環境は大きく変わっていきます。それは、データサイエンティストという最先端の仕事だからということではありません。営業、経理、人事など昔から存在する職種においても同様のはずです。むしろ、昔からある仕事であるからこそ、変化は大きいのかもしれません。

その変化についていくだけでも、リスキリングは避けて通れません。変化についていけなければ、その仕事ができないということに他ならず、もし仕事ができないようになってしまったのであれば、報酬を得ることはできません。この点を重視すれば、多くの人や組織にとってリスキリングとは仕事の変化についていくのに必要不可欠なものです。報酬が増えるほどの労働生産性向上に結び付くことを目的としてリスキリングを行うというのは、実は無理気味な発想かもしれません。

結局、リスキリングに成功したからと言って報酬が増えることを期待するのは、個人にとっても組織にとっても難しいことなのかもしれません。

 

(5)に続く

 

【注4

本稿のデータサイエンティストに関する記述は、ダイヤモンド・ハーバード・ビジネス・レビュー 2022815日公開記事『データサイエンティストは、いまもなお「21世紀で最もセクシーな職業」なのか』に拠ります。

 

【注5

ダイヤモンド・ハーバード・ビジネス・レビュー20132月号所収の『データ・サイエンティストほど素敵な仕事はない』のこと。

 

 

  作成・編集:人事戦略チーム(20221027日)