「2001 キューブリック クラーク」に見るリーダーシップとイノベーション(6)
映画「200年 宇宙の旅」の製作過程で見られる、スタンリー・キューブリック監督のリーダーシップのありかたについて、次は主にマネジメントの面から見ていきたいと思います。
さて、マネジメントの面から考察されるべきリーダーシップについては、最初に次の7点を挙げておきました。
<マネジメントのポイント>
● ビジョンを形作るにはとにかく粘る
● 期限はあってもないものと同じ
● 機密保持
● 使うべき資金と使わざる資金の峻別
● 業界の常識に囚われず、何が最も効果的か追求する
● 既存の勢力の評判は気にしない(若い世代に受け入れられるかどうかが、イノベーションの勝敗を分けるポイント)
● 捨てるもの・諦めるものが必ず生じる
映画「200年 宇宙の旅」の製作過程でのエピソードを通じて、それぞれのポイントを説明しましょう。
① ビジョンを形作るにはとにかく粘る
この作品を製作するということは、とりもなおさず、SF映画というジャンルを映画という芸術でありビジネスでもある分野に確立する、言い換えれば、SF映画という新たな市場に革新的な製品を送り込むことを目指して、スタートしたプロジェクトでした。
そのため、まだ誰も試みたことがないような制作技術を開発・導入することが不可欠であったわけです。とりわけ、ポスト・プロダクションの工程で製作技術の開発・導入が延々と続くことになります。
キューブリックとコン・ペダーソン(引用者注、ウォーリー・ジェントルマンの後任として視覚効果監督として引き抜かれたが、ポスト・プロダクションでは視覚効果の作業全体のマネジメントに徹して、実務は元の部下だったダグラス・トランブルなどに任せた)は、ある日、各シーンを完成させるのにそれぞれ十の主要段階が必要になるだろうとはじきだした。かれらの定義によると、“主要段階”とは、ひとつのショットにたいして、さらに別の技術者なり技術部門なりが大きく手を加えることを意味していた。二百のシーンそれぞれに十の段階で、二千段階。(中略)二百の視覚効果シーンそれぞれになにかひとつでもミスがあれば、すべてやり直しということになる。(中略)
ミスはもちろん単なるミスにすぎないが、それは正しい道筋が確立されていれば、の話で、実際には『2001年宇宙の旅』はキューブリックとその辛抱強いスタッフ一同が製作過程でほぼ一から十まで――まったく新しい視覚効果方法論や最新のきわめて重大なプロット要素、等々――発明してきた大規模な研究開発プロジェクトだという事実がどうしてもからんでくる。納入期限がどんどん遅れていくのは当然の話だった。キューブリックの妥協を許さぬ完璧主義がすべての基準となっていたため、けっきょくこの二百の視覚効果シーンの大半が八回から九回、やり直すことになった。(同書416ページ)
こうした作業では、いずれかで妥協が生じてしまいそうなものですが、そこにスタンリー・キューブリックの完璧主義という個人的な属性と、特殊効果スタッフの役割分担(マネジメントに徹するコン・ペダーソンと実務に徹するダグラス・トランブルたち)がうまくかみ合って、結果を生み出していくことになります。
どちらの要素も必要不可欠なものですが、作品のビジョンを実現することに妥協を許さない姿勢をリーダーが体現することこそが、最も欠くべからざるものです。なぜなら、マネジメントの体制や仕組みは、よそから導入することも可能なものですが、ビジョン実現に向けて粘り続けるリーダーの姿勢は外部から持ち込むことはできないからです。
② 期限はあってもないものと同じ
前項で述べたように“ビジョンを形作るにはとにかく粘る”というリーダーの姿勢は、同時にプロジェクト・マネジメントの常識を無視するということになります。
一般にプロジェクト・マネジメントというと、最終成果物(映画製作であれば作品)の品質・コスト・納期を定義して、その実現に向けてプロセス(プロジェクトで管理すべきスコープ・スタッフ・コミュニケーション・リスク・資源調達・ステークホルダー、そして全体の統合)をコントロールして個々のタスクを実行していくことです。
イノベーションを実現しなければならないプロジェクトも基本的には同様のマネジメントを行うのですが、最終成果物の何を最優先に考えてプロジェクトを進めるかといえば、品質です。
映画作品でいえば、映画の内容、すなわち作品のコンセプト(物語の展開やキャスト、脚本など)、映像(俳優の演技、セットや美術、衣装や小道具、撮影技術、視覚効果など)の出来映え、音楽や音響効果の出来映えなどが、監督の想定するレベル以上であることが要請されます。この品質でイノベーションを起こそうとしているのですから、当然ながら、コストや納期は、当初の想定どおりにできるとは限りません。
当初の想定どおりにできる程度の品質というのは、すでにこれまでも数多くの経験から作りこまれる、確立されたジャンルの作品にほかなりません。こうした状況に慣れ親しんできたスタッフにとって、イノベーションが求められるプロジェクトというのは、実に居心地の悪いものでしょう。「2001年 宇宙の旅」においても、ボブ・カートライトのように、それが我慢できなくなって製作現場から去るスタッフも少なからずいたようです。
ここで忘れてならないのは、納期が延々と先送りできるように資金面で支えてくれるスポンサー兼後ろ盾の存在です。いわゆるステークホルダーとの安定的な信頼関係を維持しておくことは、リーダーが採るべきマネジメントの方策として無視できません。現代ではLINEやスカイプでリアルタイムに状況を報告・説明することもできますが、この作品が製作されていた1960年代後半では手紙や国際電話が可能な手段だったので、時間差を逆手にとって、状況を言いくるめたり、こちらでは関知していないなどととぼけたりすることもあったかもしれません。
③ 機密保持
キューブリック監督は、映画の公開直前まで、アーサー・C・クラークの小説版の出版を延期し続け、MGMに対しては映画のプロモーション用の素材提供も拒み続けていました。映画をヒットさせるという点では、いまでいうメディアミックス戦略を採るならば、既に原稿が出来上がっていた小説版をさきに刊行して、映画との話題の相乗効果を狙ったり、適宜、宣伝を行って少しずつでも映像やセットなどを見せて映画への期待を高めたりしていくのが常識的な手法でしょう。
しかし、そうしなかったのは、映像が他の製作者にパクられることを極度に恐れていたからでした。これは、映画製作当初から終始、続いており、MGMの幹部などからはパラノイア的だと思われていたかもしれません。
こうしたエピソードから、イノベーティブであるからこそ、アイデアの盗用や模倣には極めて厳しく対処するという方針で一貫していたことが窺えます。
④ 使うべき資金と使わざる資金の峻別
品質で妥協しないからといって、イノベーションのために納期やコストは無制限というわけではありません。むしろ、時間の浪費や資金の無駄使いには厳しい姿勢で臨むからこそ、スポンサーも周囲のスタッフも納得してくれるのではないでしょうか。
キャラス(引用者注、パブリシストでポラリス・プロダクションズ社の副社長でもあるロジャー・キャラスは、1966年夏にはニューヨークでMGM幹部などを相手にキューブリック監督の代理として「2001年 宇宙の旅」の宣伝戦略を練り始めていた)はフィルム貸与の料金交渉をし、秘書を雇い、広告デザイナーと契約し、影響力のある人物をランチに誘い、と活発に動きまわり、その結果、当然ながらさまざまな経費が発生していった。するとこんどはこれが、ファインダーを覗いているとき以外は経費増に目を光らせているキューブリックの不満の種になり、(中略)わけても監督は人との会食の必要性に疑問を抱いていて、キャラスに人と会うときは、できれば食事と食事のあいだの時間帯に会うようにしろ、とアドバイスした。(中略)
なにかと出費がつづいて四カ月もすると、監督は副官にまた手紙を書かねばと思うことになる。(中略)その手紙には、スタンリー・キューブリックの取引哲学を手短にまとめたものが記されていた。
「相手がいくらいくらといったら必ず驚いてみせるすべを学んでほしい」と彼は書いている。「相手が金額をいったら、青ざめて、いかにも疑い深げに、『なにに使うんだ?』とたずねてみるべし。君が宣伝用スケッチに払うと同意し、わたしがのらりくらりと逃げようとしている二百五十ドル、あれはいくらなんでも高すぎる」(同書428~429ページ)
無駄なコストや効果が疑わしい経費支出に神経をとがらせているキューブリックですが、必要なものには資金も手間も惜しみません。その結果がどうであったか、やってみて初めて問題点がはっきりするものであったなら、仕方がないこととして次の方法をすぐに考え出すしか、対処の方法はありません。
TMA・1とはティコ磁気異常1号の略で、その大きさ、形、質感、材質がいまもキューブリックのオフィスで盛んに議論されている異星人の遺物のことだ。
監督は異星の物体を完全に透明な物体で作りたがった。(中略)プレキシガラスで作ろう、とキューブリックはいった。きみたち英国人がパースペックスと呼ぶもので。(中略)
(引用者注、主任プロダクション・デザイナーのトニー・マスターズがメーカーに発注してから数カ月ほど後、3メートルを超えるガラスの板がようやく完成した。)
史上最大のパースペックスの完璧な板。
そしてマスターズはキューブリックのもとへそれを運んだ。とはいえ、監督に見せる前に、クルーがサウンドステージに設置し、照明を当てて、仕上げの研磨をした。すばらしい出来映えだったが、プレキシガラスの板のように見えた。(中略)「ああ、なんてこった」とキューブリック。「見えるぞ。緑がかっている。ガラスの板みたいに見える」(中略)「なんてこった」キューブリックはくり返した。「完全に透明になると思っていた」
「まあ、厚さが六十センチ近くありますから」マスターズは眉間にかすかなしわを寄せていた。彼らは光を屈折させたり反射させたりする、緑がかったポリメタクリル酸メチルのきらめく厚板をじっと見つめた――重さは二トンを超える。(中略)それはキューブリックの想像した、魔法のように完全に透き通っている、目に見えないも同然の異星人の遺物ではなかった。
「ああ」彼は残念そうにいった。「しまってくれ」
「なんですって?」とマスターズは信じられないといいたげに尋ねた。
「しまってくれ」キューブリックはくり返した。
「はあ」とマスターズ。「わかりました」彼は作業員たちのほうを向いた。「片づけてくれないか」
費用についていえば、スタンリーの若いアシスタントたちのひとりがあとで見積もったところによれば、グレーター・ロンドン域内でかなりの大きさの家を買ってお釣りが来る値段だった。(原注、フレッド・オードウェイは、のちに約五万ドルと試算した。今日の価値では四十万ドルをわずかに下まわる額だ。)
(同書163~167ページ)
この失敗から、トニー・マスターズは黒い板状のものをTMA・1として提案することになります。その結果が、できあがった作品で“モノリス”と呼ばれることになる漆黒の巨大な板です。
観客としてのわれわれの目から見れば、“モノリス”が透明なものであった「2001年 宇宙の旅」というのは考えられません。黒の“モノリス”であるからこそ、ヒトザルに知恵というか何らかのインスピレーションを与え、人類が再発見するのを待ちながら月に屹立し、ボーマン船長の死と再生に臨み、宇宙空間を浮遊することに、納得感が生まれるのではないでしょうか。
⑤ 業界の常識に囚われず、何が最も効果的か追求する
高額予算のハリウッド映画ではオリジナルの楽曲を使うのが通常のやり方で、キューブリックも1966年に作曲家のフランク・コーデル(引用者注、イギリスの作曲家・編曲家・指揮者)に背景音楽の作曲を依頼し、契約を結んでいる。(中略)しかしコーデルを雇ったあと、キューブリックはどういうわけか彼に映像素材をいっさいに見せずに、とにかく言葉の説明だけで曲をつくってくれ、というばかりであった。(中略)
コーデルの立場がいかに危ういものだったか、その一片を垣間見せてくれるのが、ジェレミー・バーンスタインが1966年11月に<ニューヨーカー>誌に語ったキューブリックのプロフィール記事だ。それによると、監督はどんなスタイルの音楽を使うかまだ決めかねているが、とりあえずいまはドイツの作曲家カール・オルフを、「求めるタイプ」と考えている、となっている。(中略)
オルフのつぎに――そしてフランク・コーデルは依然として自分がなにを求められているのかわからずに葛藤しているという状況下――キューブリックは映画音楽作曲家のバーナード・ハーマン(注9)に接触した。(中略)しかし『博士の異常な愛情』の仕事を断っていたハーマンは、この話も引き受けようとはしなかった――(中略)監督はさらに作曲家のジェラルド・シュールマン(注10)と指揮者のフィリップ・マーテル(引用者注、イギリスの作曲家・編曲家・指揮者で1950年代よりホラー映画で有名になったハマー・フィルム・プロダクションズの音楽部門の責任者)に『2001年』のための音楽の選曲について相談を持ちかけたが、どちらにもスコアの提供を依頼してはいないと伝えられている。
キューブリックは最終的に、すでにレコードになっている曲を使うことにしたわけだが、そこに至るまでにはかなりの回り道をしている。(同書460~462ページ)
結局、スタンリー・キューブリック監督は、ハリウッドの大作映画の定石とは異なり、既成のレコードから音楽をつけることになります。使用したのは、リヒャルト・シュトラウス「ツァラトゥストラはかく語りき」、ヨハン・シュトラウス「美しく青きドナウ」、ジェルジュ・リゲティの合唱曲2曲(「レクイエム」と「ルクス・エテルナ」)と管弦楽曲「アトモスフェール」です。
できあがった作品を見ると、映画が企画された当初から、オープニングは「ツァラトゥストラはかく語りき」、宇宙船がステーションにいくシーンなどは「美しく青きドナウ」、スターゲートのシーンはリゲティの合唱曲を想定していたのではないかと思えるほど、映像に実にぴったりと嵌まっています。
既に確立されているジャンルの作品であれば、映像や脚本などから新規に音楽をつくることも十分に可能でしょう。しかし、新たなジャンルを確立しようとする作品では、監督も欲しい音楽を説明できないかもしれませんし、作曲家も見本となる音楽をイメージすることができません。
「2001年 宇宙の旅」以降、既存の音楽(すでに録音されているもの)を活用して、それがまるでこの映画作品に充てて作られたかのように感じられるものが出現します。たとえば、ルキノ・ビスコンティ監督の「ベニスに死す」とグスタフ・マーラー“アダージェット”、フランシス・コッポラ監督の「地獄の黙示録」とザ・ドアーズ“ジ・エンド”およびリヒャルト・ワーグナーの“ワルキューレの騎行”といった、映画作品と使用されている音楽作品との関係が代表的なものです。
新しい製品やサービスを開発するとはいっても、顧客や市場は既存のものということは往々にしてあります。また、新たに開発するからといって、すべてをゼロから作り出すことが必ず必要というわけではありません。既存の方法論、既に存在する製品やサービス、誰もが知っているブランドであっても、それらを活用して新たな価値を生み出すことができるなら、活用しない手はありません。ときには、既存のもののなかにこそ、最も効果的な解決策があるものです。
⑥ 既存の勢力の評判は気にしない(若い世代に受け入れられるかどうかが、イノベーションの勝敗を分けるポイント)
すべての視覚効果が組みこまれた『2001年宇宙の旅』が、はじめて最初から最後まで中断なしで上映されたのは、三月二十三日の土曜日、カルバーシティの大劇場でのことだった。観客はごく少数。自身の作品を完全なかたちでは一度も見たことがなかったキューブリックに加えて、デ・ワイルド(引用者注、第一アシスタント・フィルム・エディターのデイヴィッド・デ・ワイルドのこと)、ラブジョイ(引用者注、監督のアシスタントで主任フィルム・エディターのレイ・ラブジョイのこと)、そしてMGMのお偉方(中略)。
ミキシングがまだ完全ではなく、キューブリックはデ・ワイルドに、とくに「ツァラトゥストラはかく語りき」のボリュームを上げるように指示した。当時の上映時間は百六十一分で、デ・ワイルドとラブジョイは暗い客席で『2001年』が展開していくのを見まもりながら、そのすばらしさに驚嘆すると同時に不安を覚えてもいた。(中略)
およそ三時間後、場内が明るくなって「全員が立ちあがり、わたしは心のなかで『くそ!』とつぶやいた。大失敗だと思ったんだ」とデ・ワイルドは回想している。(中略)
映写室に行ってみると、驚いたことに映写技師のほかに十八歳くらいの若者がいた――モーリス・シルバースタイン(引用者注、MGM副社長兼MGMインターナショナル社長、この試写会に参加していた“MGMのお偉方”の一人)の甥だった。どうやら映写ブースの窓から全編を見ていたらしい。その顔には恍惚とした表情が浮かんでいた。
「これ、つくった人?」と若者が興奮したようすでたずねた。
「ああ、やっと終わったばかりだ」デ・ワイルドは答えた。
「誰?」たずねるというよりは、ふしぎそうな口調だった。
「スタンリーの編集助手だ」デ・ワイルドも徐々に気分が落ち着いてきていた。
「へえ、いま、見ましたよ」
「どうだった?」
「こんなすごいの、見たことないですよ」(同書528~531ページ)
映画「2001年 宇宙の旅」は、それができあがった瞬間から、大人(MGMの幹部など)には受けず、若者には受けていたようです。
クリスティアーヌ・キューブリックが記憶している『2001年』のプレミアは、自身が出席した四月三日の夜にブロードウェイのロウズ・キャピトル・シアターで催されたものだという――招待客のみのイベントで、マスコミは中には入れず、観客はおもにメディアや文化畑の名士、MGMの上層部から中堅、そしてポール・ニューマン、ジョアン・ウッドワード、グロリア・ヴァンダービルド、ヘンリー・フォンダら各界の著名人。(中略)
インターミッションに入ると、クリスティアーヌは館内全体からシャーデンフロイデ(ドイツ語で人の不幸をおもしろがる気持ちの意)が発散されているのを感じて圧迫感を覚えた。(中略)
すでに映画を二回見ていたクラークはインターミッション中に館外に出ると、屈辱と失望のうちにチェルシー・ホテルに引きあげた。のちに彼は、客席に陣取ったMGMの重役たちの一団からこんな言葉が聞こえてきたと回想している――「これでスタンリー・キューブリックもおしまいだな」
けっきょく、途中で出ていった人物は二百四十一人にのぼった。観客総数の六分の一以上だ。(同書537~540ページ)
いわゆる名士たちを対象にしたプレミア上映でも、大人には受け入れられないままでした。しかし、キューブリック監督は一部の重複したシーンをカットした以外は、ほぼそのまま完成版として映画の一般公開となります。
映画に限らず、トライアルや限定公開など(プレオープンとかメディア公開とか)の段階ともなれば、良かれと思っていろいろと意見や批判を伝えてくる関係者や友人・知人が数多くなります。ただ、それらをいちいち真に受けていては、製品にせよサービスにせよ、一本筋の通ったイノベーションが実現し損なう恐れがあります。というのも、こうした意見や批判は、その人々が持っている既成の価値観や判断基準に従っているものなので、真にイノベーティブなものを評価するには最も不適切なものだからです。
つまり、試写会などでの映画関係者などの反応に左右されることなく、作品をそのまま公開するのも、“一貫性”としてリーダーがもつべきキャラクターと言えます。
『2001年』は興行面ではふるわず、若い観客が馬を駆って助太刀に馳せ参じるまでは打ち切り寸前の窮地にあったという神話とは逆に、興行データは初日からチケットの売れ行きがめざましかったことを示している。プレミアから一週間後の四月十日の時点ですでに、<バラエティ>には前売り券の売り上げがMGMの1965年のヒット作『ドクトル・ジバゴ』を三十パーセント上回っているというデータが掲載されていた。
しかしシルバースタインの甥の反応が示していたように、『2001年』が広く受け入れられるかどうかは観客が60年代後期の世代分水嶺のどちら側に属するかにかかっていた。(中略)
この現象はほぼ公開直後から起こっていた。五月中旬になると、<バラエティ>が伝えるところによれば『2001年』は公開後五週間、わずか八館での上映で百万ドル以上の売り上げを記録し、ニューヨークのロウズ・キャピトル・シアターでは観客をさばくために週末に午後五時の回を新規に設けたという。こうして喝采が強まっていくと、評論家のなかには考えを改める向きも出てきた。(同書548~540ページ)
映画にせよ何にせよ、新しいものを受け入れるのは、やはり既成の価値観や判断基準からできるだけ遠い存在、つまり若い人々、既存の文化領域からみれば周縁に位置するアウトサイダー的な人々ということになるでしょう。
逆に言えば、イノベーティブかどうかは、大人に聞いてみてもわかるかもしれません。彼らに不評であったり受け入れられる要素がなかったりすれば、少なくともありきたりの既成のものではないことが想定できます。反対に、大人に評価されたり受容されたりするものであるならば、それはイノベーションからはほど遠い存在と言わざるを得ません。
現代のマネジメントでは、テストマーケティングの対象をどのように選定するのか、そして結果をどのように解釈して製品・サービスのブラッシュアップにつなげていくのか、という問題に直結するテーマです。とりあえずβ版を出して課題があれば順次潰していくにしても、β版の利用者がどのような人々なのか、イノベーションをどの程度まで受け入れる人々なのか、相当に知ってから対応すべきかもしれません。
⑦ 捨てるもの・諦めるものが必ず生じる
品質を最優先とし、納期やコストは事実上、制約要件とは見做さないようにプロジェクトを進めることが十分にできたとしても、すべてを完全に作り上げるということもまた、幻想です。
1967年から68年にかけての秋冬、過剰な仕事でがんじがらめ状態のキューブリックの協力者たちは、この非凡な映画にふさわしい説得力のある異星人をつくりだすため、最後のひと押しと奮闘の日々を送っていた。異星人はいいものができればボーマンがスターゲートを通り抜けるシーンあるいはホテルの部屋のシーンで登場させることになっていたが、なにひとつはっきり決まっているわけではなく、キューブリック自身も暗中模索の状態だった。(中略)
スタンリーとクリスティアーヌは地球外生物の外観はどうあるべきか、製作開始時からずっと話し合って、クリスティアーヌがシャーリー・ペダーソン(引用者注、特殊効果監督のコン・ペダーソンの妻で彫刻家兼陶芸家)と塑像をつくるというところまできていた。(中略)
当時、自身はどう考えていたか、スタンリーはなんといっていたかを覚えているかとたずねると、クリスティアーヌはつぎのように答えた。「ふたりともおなじだったわ。クラークともずいぶん話し合いましたよ。かなりフラストレーションがたまったわね、想像したものがちっともおもしろくなかったから。なにを思いついても、おなじ理由でたちまち魅力もおもしろみも失せてしまうの」
とはいえ、キューブリックは理論家ではなく、二十世紀を代表する実務家のひとりだったから、やれるだけのことはやりたいと考えていた。(中略)
1967年から68年にかけての冬の時点で、キューブリックがはじめてクラークに会った日から四年の歳月が流れており、(中略)どこまでいっても逆張りの人だった監督は、もしかすると『2001年』の異星人は姿を出さずに存在をほのめかすだけにすべきだというカール・セーガンの提案にまだこだわっていた可能性はある。が、やはりなにかを形にしようと格闘しているあいだはセーガンの意見のことは忘れていたと見るほうが妥当だろう。彼が求めていたのは、彼でも彼女でもそれでもいいが、とにかく全体の空気を壊さない程度に異様で異質で力強い生きものだった。(中略)
自身にとっては『2001年』での最終段階となったこの仕事(引用者注、ヒトザルのリーダーを演じたパントマイム・アーティストのダン・リクターに衣装やメークを施して“ポルカドット・マン”と呼ばれることになる異星人を作り出す作業)をふりかえって、フリーボーンは言葉をつづけた。「ある意味、良すぎたんだと思うんだが、けっきょく彼が求めていたものにはならなかったんだ。なぜなら異星人とは、何なんだ?」
まさにそれが問題だった。そしてトランブルもこの試みに巻きこまれていき、彼の仕事場には奇妙な宙に浮いたスリットスキャンの都市景観が出現することになった。(中略)
トランブルの異星人づくりの作業には、これ以外に浮遊する半透明の光のパターンもあった。(中略)「実際、美しいものをつくりあげたんだが、製作終了まで二週間しかなくて、キューブリックに『ここでやめてもらうしかない。それ以外に道はない。たとえきみがうまくやれたとしても、もう映画に入れこむことはできないんだ』といわれてしまった」
けっきょく信じがたいほど信じられる異星人をつくるという問題は、やたら忙しいだけで得るものなし、というかたちで終わってしまった。(同書496~502ページ)
リーダーだけができる決断のひとつにして最も重要な事項は、止める・捨てる・諦める、ということです。特にイノベーションが不可欠なプロジェクトにおいて、何をどこまで拘り粘り作業をやり続けるか、というのは最も難しい決断です。それが、SF映画における異星人の造形ともなれば、なおさらです。
必ずいつかはプロジェクトを終了させる時が来ます。プロジェクトから定常的な業務へと、どこかで仕事のやりかたが遷移します。開発の仕事がずっと続くというのでは、開発になりません。
プロジェクトのマネジメントには、この終了の意思決定とその後処理も忘れてはなりません。特に最後まで頑張ってベストを尽くしてくれたスタッフに、中途半端な気持ちや無念さをもたせたまま、チームを解散することは避けたいものです。
【注9】
バーナード・ハーマンの生涯や作品などについては以下のサイトを参照してください。
http://www.bernardherrmann.org/
【注10】
ジェラルド・シュールマンの生涯や作品などについては以下のサイトを参照してください。
http://www.gerard-schurmann.com/
作成・編集:QMS 代表 井田修(2019年4月30日更新)