「2001 キューブリック クラーク」に見るリーダーシップとイノベーション(2)

「2001 キューブリック クラーク」に見るリーダーシップとイノベーション(2

 

 映画「2001年 宇宙の旅」のように、SF映画というものを決定的に革新するほどのイノベーションを起こすプロジェクトは、どのように始まったのでしょうか。

 

 この十年ほど、SFに敬意をいだいてもらおうという試みが大々的になされていたものの、一九六〇年代初頭、そのジャンルが社会的に受け入れられている度合いは、ポルノグラフィーと五十歩百歩だった。クリスティアーヌ(引用者注、スタンリー・キューブリックの妻で画家や女優でもあるクリスティアーヌ・キューブリックのこと)の記憶によれば、SFは「緑のこびとが出てくるもの」だった。(中略)

やがてフォーブス(引用者注、俳優出身のイギリス人映画監督、『汚れなき瞳』や『雨の午後の降霊祭』といった作品をキューブリックは評価していた)が、つぎにどんな映画を撮るつもりなんだと尋ねた。キューブリックは、SF映画を撮る可能性を探っていると答えた。

「おいおい、スタンリー、嘘だろう!」とフォーブスが大声をあげて、首をめぐらせた。「SFだって? ふざけてるんだな」キューブリックは感情を交えずに彼を見つめた。いや、ふざけてなんかいない、とキューブリックは答えた。じつは、いくつかアイディアを温めているんだ、と。いまではふたりは、凍てついた歩道の上で向いあっていた。フォーブスは、相手が真剣そのものなのを見てとって、こんどはキューブリックの帽子を嫌悪の目でじろじろ見た。(中略)

 家に帰ると、彼はその出来事をクリスティアーヌに話して聞かせた。(中略)のちに、彼女はフォーブスとの仲たがいを、スタンリーの人生の決定的な章のはじまりとして想起するようになる――彼が『2001年宇宙の旅』を作った章である。

(マイケル・ベッソン著、中村融・内田昌之・小野田和子訳、添野和生監修、2018年早川書房刊)7071ページ、以下の引用はすべて同書より)

 

 一般に、イノベーションにつながるようなものは、一般人はもとより、その道のプロや専門家といった立場の人々からも、まずは頭ごなしに「無理、できるはずがない」と否定されるものでしょう。反対に、多くの人が「やろう」「できるはず」と賛成するようなものでは、仮に想定通りできたとしても、たいしたイノベーションにはつながらないでしょうし、世の中には競合するものばかりということが実によくあります。

 この当時のスタンリー・キューブリックは「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」という1964年公開のブラックコメディのモノクロ映画がヒットしていて、次回作が注目を集める映画監督でした。そのキューブリックが次に取り組みたいものとして、当時はまともに相手にされないジャンルであったSF映画にチャレンジしようとしていたのでした。

 ただ、宇宙や宇宙人、ロケット工学などSFに関する事象には専門知識を十分にもっていたとはいえなかったキューブリックは、既にSF作家として地位を築いていたアーサー・C・クラークにコンタクトをとっていきます。キューブリックとクラークの二人は、手紙のやりとりを何度かした後、キューブリックが住むニューヨークを、別の仕事もあったクラークが訪れることになります。

 

 即座に感心させられたのは「純粋な知性」だった、とクラークは書いている。「どれほど複雑なものであろうと、キューブリックは新しい考えをたちまち理解する。あらゆるものに興味を持っているようでもある」と。八時間続いた最初の打ち合わせは、SF、政治、空飛ぶ円盤、宇宙開発、『博士の異常な愛情』といった話題におよんだ。(中略)のちに『2001年宇宙の旅』になるものの背後にあった基本概念は、一九六四年にキューブリックとクラークとのあいだで余人を交えずに闘わされた議論から生まれたものだった。(同書7879ページ)

 

 “知のスパーリング・パートナーを確保する”ことがイノベーションの第一歩であるというのは、正にここで述べられていることです。

 何か新しい技術・製品・サービスを生み出すには、一人で考えていても、そうそう革新的なアイデアは生まれません。仮にイノベーティブなアイデアはあったとしても、それを具体的なコンセプトとして形作るには、さまざまな考えをぶつけ合い、そこからさらに新たなコンセプトに昇華させていく知のセッションの時間とエネルギーが求められます。

 

 そのあとの一ヵ月ほどは、毎日のように打ち合わせが行われ、そのなかで大量の情報がやりとりされた。たいていは一方向へ。つまり、クラークの愛想のいい雄弁な知性から、キューブリックの激しい飢えをかかえた知性へ。(同書83ページ)

「来る週も来る週も話をした――ときには十時間ぶっとおしで――そしてニューヨークじゅうをさまよった」と。(同書85ページ)

四度の長い長い打ち合わせと、十数回の電話のあと、映画の形が――クラークの言葉を借りるなら――「言葉の霧」から姿を現しつつあった。(中略)ポラリス・プロダクションズ(引用者注、スタンリー・キューブリックの映画製作会社)はクラークの短編小説六篇のオプションを取得する。それらはつなぎ合わされて、映画の土台となる。自分(引用者注、スタンリー・キューブリックのこと)の作りたい映画は、これからの五十年ほどにまたがり――『西部開拓史』に匹敵する期間だ――宇宙時代の第一章をカバーして、地球外知性とのファースト・コンタクトで絶頂に達するだろう。(同書90ページ)

 

 “知のスパーリング”とは、正にこうしたコミュニケーションを指します。イノベーションにつながるようなアイデアは、一人で考え続けるよりも、適切なパートナー(スパーリングの相手)を得て、二人または三人で、実践的にアイデアを闘わせるセッションをやってみるほうが早いでしょう。

 ただし、“知のスパーリング・パートナー”であるためには、単に頭が良いとか、その分野の第一人者であるといった条件だけではありません。もちろん、取り組もうとしているテーマについて、少なくともパートナーの一人は相当な知識や洞察をもっていることは必要ですが、それ以上に重要な条件があります。

 

 セーガン(引用者注、1964年当時、ハーヴァード大学特任教授であった天文学者のカール・セーガンのこと)が十年後に書いたものによれば、彼は自負を示すと同時に自己の権威を拡大する機会だと理解してディナーに臨んだという。(中略)食事のあいだ、キューブリックはセーガンを気づかい、彼の意見を求めて、礼儀正しく耳をかたむけていた。翌日また集まって議論を再開しようという提案に同意さえした。ところが、じっさいは、若い天文学者の傲慢で保護者めいた態度に見えたものにいらだっていたのだ。ゲストたちを見送ったあと、彼は一時間待ってから、チェルシーのクラークに電話をかけた。「あいつはもう呼ばないでくれ」と彼はいった。「なにか口実を作って、どこでもいいから、あなたの好きなところへ連れていってくれ。二度と会いたくない」(同書106107ページ)

 

 このエピソードから明らかなように、どちらかが心理的に優越した情況を望むようであれば、“知のスパーリング”は成り立ちません。“知のスパーリング”は、参加する者が互いに対等の情況で自分のもつすべての情報をぶつけ合い、そこから新たなイノベーションの核になるものを見つけ出す作業に他ならないからです。“知のスパーリング”のセッションの主人公(この場合はキューブリック)にとって、必要なのはスパーリングの相手(パートナー)であって、レフェリーや偉そうに口を挿む専門家ではないのです。

 では、“知のスパーリング・パートナー”はどのように見つけ出すことができるのでしょうか。

キューブリックとクラークの出会いもそうですが、こうした関係は偶然出会うようなものではありません。むしろ、自ら探し出して見つけるものであり、そういう意味で必然の出会いといえます。

起業ストーリーでよくあるもののように、創業チームとなるメンバーの偶然の出会いから新たな製品やサービスが生まれるというのは、当事者がストーリーとして語るのは自由ですが、これからイノベーションを生み出そうとしている人にとっては真に受けてはいけない話でしょう。自ら生み出したいテーマを発信して“知のスパーリング・パートナー”を探し出すしか、手段はあり得ません。偶然を待っていたのでは、いつになっても起業やイノベーションは進展しません。

1960年代半ばにニューヨークとスリランカにいたキューブリックとクラークが出会うことができたのですから、SNSなどで世界中に情報を低コストで発信することが可能な現代において、“知のスパーリング・パートナー”を探し出すことがより困難になったとは思えません。

むしろ、本当に“知のスパーリング・パートナー”といえる人材かどうか、ネットを介したやりとりを通じて見極めることばかりに注力してしまい、直接会って、時間の制約を無視するようなディスカッションの場をもつことのほうが疎かにされてしまっているのかもしれません。

 

 クラークは当時四十七歳。宇宙、宇宙論、ロケット工学、天文学、未来論、SFについて知るべきことを片っ端から吸収することに人生の大半を費やしてきていた。(中略)人類の太陽系進出を声高に喧伝してきた。言語明瞭で、ウィットに富み、自己中心的だった(中略)執筆するときは自己流を通すのに慣れていたが、映画が共同作業のメディアであり、監督がボスであることはよくわきまえていた。

 キューブリックは三十六歳。クラークよりも十歳以上も若く、創造力の頂点をきわめていた。辛抱強く、やわらかな口調で話し、礼儀正しく、分別があり、辛辣で、ひどく執念深く、複数の知的ボールをいついかなるときも空中に浮かべておくことができた。彼が視覚面で強制力をふるい、知的な面で挑発する映画を必要な内容を吸収するという話になると、共作者たちは判で押したようにスポンジのメタファーを使う。(同書79ページ)

 

 このように評される二人でありますが、共通のベースがありながら同時に対照的な特徴もありました。

共通するのは、アメリカ人とイギリス人という違いはあるものの二人とも英語が母国語であることです。長時間にわたり密度の濃いコミュニケーションをとる上で、母国語が同じというのは、無視できない要素です。

そして、知性があり知的であることも重要な共通点です。いきなり行動して、試行錯誤の混乱の中から成功パターンを生み出すという方法も一般論としてはありえますが、イノベーションの核となるコンセプトを明確化していく作業には向きません。この作業のために必要なのは、一種の頭の良さ、それを知性とか知的好奇心の強さ、などと言えるでしょう。

また、二人とも肉が好きということもあります。食べ物や飲み物の好みが合ったほうが、長いセッションを繰り返すには好都合です。

一方、対照的なのは、映像(写真や映画)のキューブリックと文字(文章)のクラークというように表現手段が、まず違います。SFというジャンルに対するこれまでの蓄積も対照的です。また、私生活においても対照的で、セクシャリティや婚姻の状況(家族関係)は、誰かが意図的に計画したかのように対照的と言わざるを得ません。

キューブリックとクラークの組み合わせから、イノベーションを実現する“知のスパーリング・パートナー”に必要と思われるものをまとめてみると、まともな知性を有していること、誠実に仕事に取り組む姿勢があること、言葉(母国語)の共通性が挙げられます。それ以外の要素、たとえば、過去の仕事の分野やテーマ、有しているスキルや能力・資質、年齢・国籍・性別などの個人の属性などは、相互に異なるほうが望ましいのではないでしょうか。

 

(3)に続く

 

 

作成・編集:QMS 代表 井田修(2019321日更新)