「2001 キューブリック クラーク」に見るリーダーシップとイノベーション(3)

「2001 キューブリック クラーク」に見るリーダーシップとイノベーション(3

 

映画製作にせよ、起業するにせよ、組織内で業務改善を試みるにせよ、何かプロジェクトを進めようとすると、当初の計画どおりに物事が運ぶことはまずありません。

映画「2001年宇宙の旅」の製作も例外ではありませんでした。むしろ、当初の計画から大きく外れても何とか完成した作品の代表例というほうが適切かもしれません。

 

 その時点で『2001年』にはすでに六百万ドルを超える予算がつぎ込まれ、大幅な遅れも出ている状態(注3)だった。(中略)まちがいなくいえるのは、MGM社長、ロバート・オブライエンが、膨らみつづけるコストや先送りされつづける納期をめぐる社内や出資者の不安の多くを吸収してくれていたということだ。アメフトでいえば、ボールを持って走るプレイヤーに伴走して敵にタックルされるのを防ぐ役割を果たしてくれていたといえる。(同書503504ページ)

 

 映画製作でいえば、制作会社のCEOなどの経営幹部、起業についていえば、起業資金の出し手である出資者やVC、一般のプロジェクトでいえば、いわゆるプロジェクト・オーナー、こういったプロジェクト・リーダーを支持し支援し資金(および必要な経営資源)を提供してくれる関係者を選ぶことは、イノベーションに“知のスパーリング・パートナー”が必要なことと同様に、実際にイノベーションを形にしていくのに不可欠です。

 

 とはいえ、キューブリックは映画会社のボスを賢明に選んでいた。その後の数年にわたり、オブライエンの支援はゆるがなかった。そのプロジェクトを後援するという彼の決定は、たしかにさまざまな要素が複雑にからみ合った結果(注4)だった。(中略)おまけに、その監督の起用は安全パイに近かった。彼は『スパルタカス』でほぼ同じ規模と予算の映画をすでにあつかったことがあり、『博士の異常な愛情』で批評的な絶賛と商業的な成功を両立させられると示したばかりだった。(同書192193ページ)

 

 プロジェクト・リーダーは、プロジェクト・オーナーに関する目利きとか、オーナーの立場や事情を斟酌して自らの行動を選択する能力が求められます。そうした能力があるとは自覚できなければ、少なくとも、自分のビジョンを具体化する上で誰がプロジェクト・オーナーであり、そのオーナーが真に求めていることは何なのか、一度は深く考えて、既にオーナーとなっている人とも改めて話し合うことも必要でしょう。

 そもそも、プロジェクト・オーナーになってもらうには、リーダーにある種の実績が必要です。実績が何もないのでは、オーナーがリーダーを選ぶ際の判断基準がないことになってしまいます。一個人の出資者であれば、直感でも構わないかもしれませんが、VC、特にCVCのような組織から出資を受けるとなると、CVCの責任者の立場や置かれている情況といった要素も、起業する人にとって、現実に考慮すべきポイントです。特に出資者が多数になる場合には、そのなかの相互関係や影響力などを見極めて、オーナーのなかのキーとなるオーナーとのコミュニケーションには時間とエネルギーを割くべきでしょう。

 ここでいう実績というのは、既に起業で成功したことがあるというものではありません。以前いた会社で製品開発プロジェクトをやり遂げたとか、友人知人から引き継いだ会社を小規模ながらも数年間経営して、次の経営者に引き継いだことがあるといったものです。要は、この起業プロジェクトを任せるに足る人物であるかどうかを示すものがあればよいのです。

 キューブリックの場合、製作規模やヒット作という点で映画監督として相応の実績があったことは、やはり大きいでしょう。そのうえで、MGMという映画会社との駆け引きとかオブライエン社長との信頼関係作りにも、十分に留意してことに当たっていたのです。

 ただし、当人同士の間で信頼関係が築けているだけでは、プロジェクト・オーナーとプロジェクト・リーダーの関係は不十分です。周囲の状況もまた、オーナーとリーダーの関係を大きく左右します。

 

 この成功(注5)でオブライエンがキューブリックを擁護する陣形を保ちやすくなったのはたしかだったが、ほかの重役たちはそこまで楽天的ではなく、投資家たちも同様だった。(中略)キューブリックは卓越した創造的な判断を下すことでは定評があり、その評価はいささかも揺らぐことはなかったが、製作をつづけることにかんしてはMGMにたよらざるをえない立場だったから、けっきょくは説得をまったく受けつけないわけではなかった。彼がとくに注意を払っていたのはオブライエンの意見だった。オブライエンが『2001年』の製作に肩入れしてくれていることはまちがいのない事実だったし、彼がこの先、いまの地位を保っていられるかどうかが『2001年』の成功を左右する可能性はますます大きくなっていたからだ。(同書505ページ)

 

 プロジェクト・オーナーから見れば、一つのプロジェクトがうまくいくと、別のプロジェクトもうまくいき、さらに別のプロジェクトにも好影響が及ぶといったことが見られます。成功パターンができるのか、一つの成功が他に波及するのか、わかりませんが、うまくいくときはうまく回っていきますが、ひとつ歯車が狂うと、物事が進まなくなります。映画製作も起業も、同様でしょう。

 なかなか製品やサービスの形が見えてこない状況が続くなど、プロジェクトの進展が疑問視される時間が続くほど、互いに疑心暗鬼となることもあるでしょう。まして、組織同士の話ともなれば、誤解や憶測が飛び交うこともまた不可避で、それに対処することもリーダーにとって重要な仕事といえます。

 その一例として、ロンドンでポスト・プロダクションの真っ最中で多忙を極めていたキューブリック監督がロサンジェルスにいるロジャー・キャラス(引用者注、キューブリックの製作会社の副社長でパブリシストとしてキューブリックの代理人としてMGMの経営幹部との折衝に当たっていた)に宛てた手紙の一説をご紹介します。

 

 キア(引用者注、ボーマン船長を演じた俳優のキア・デュリアのこと)のエージェントのパートナーがどうこういうような重要な情報がからんでいるケースで、マイク・コノリー(引用者注、ハリウッドのゴシップを扱うコラムニスト)の記事のような文章を送るのはどうかやめてもらいたい。これはどう考えても詳細をしっておかねばならない話だ。きみは誰からこの話を聞いたのか。その連中はどうして知っているのか。キアのエージェントの名前は? そのパートナーの名前は? 知らぬふりをきめこんだ、とはどういう意味なのか。きみはこの件でMGMの人間からなにかいわれたのか。気分を害していると思われるのは誰と誰なのか。参考までにいっておくが、オブライエン以上にフィルムを見た人間はいない。その人物はいつ見たと思われるのか。この件にかんして、ほかにどんな事実をきみは知っているのか。すぐに答えられない質問があって、調べれば答えが見つかるというのなら、そうしてほしい。事実でもないことが問題になるのだけは、御免こうむりたい。(同書434ページ)

 

現在ではメールやチャットでもこうしたやり取りは即時に可能ですが、曖昧な事実に基づかない話もまた、瞬時に広がっていきます。起業ともなれば、財務や資金調達はCFOにある程度は任せたいところですが、製品開発やマーケティングや人材採用などでいかに忙しくても、プロジェクト・オーナーの立場にかかわる問題には、これくらい敏感であることが求められます。

そうでないと、「事実でもないことが問題になる」など、いろいろと不都合が生じて、より複雑で面倒なことになりかねません。それでは、リーダーシップもイノベーションもない、ただのカオスだけが成長して手に負えなくなることが十分に予想されます。火のないところの煙でも、プロジェクト・オーナーが誤解するかもしれないことは、リーダー自ら直接、事情を説明するといったケアが必須です。

 

【注3

本文中の「その時点」とは196711月を指します。この頃、1965年の年末に始まった映画の製作(撮影)はすでに終了し、その後2年に及ぶポスト・プロダクション(撮影したフィルムの編集をはじめとして、効果音、音楽、セリフやナレーション、特殊効果等の映像処理などを行う工程)の最終的な段階にあったはずですが、いまだに3分の2は未完成という状態にあったそうです。

映画の公開は、MGMとポラリス・プロダクションズが契約した当初は、1966年後半または1967年前半と決まっていましたが、実際には19684月であり、1年遅れての公開となりました。

 

【注4

本書131132ページの記述によると、この当時、以下のような事象がオブライエン社長を取り巻いていたものと思われます。

MGMの財政的な問題(1962年公開の『戦艦バウンティ』の歴史的惨敗、1965年公開予定だった超大作『ドクトル・ジバゴ』の度重なる遅れと予算超過)

・財政的な問題から引き起こされる、MGMの重役や投資家の社長への批判や不安心理

・製作本数の急増からジャンルとしては成立しつつあったSF映画について、映画市場において真に優れた作品が必要と思われたこと

1960年代を通じて盛り上がっていった米ソの月への競争(アメリカのアポロ計画)

 

【注5

この成功とは、『ドクトル・ジバゴ』の完成と興行的成功のことを指します。

MGMのオブライエン社長は)一九六三年に社長の地位までのぼりつめるとすぐに、自身が擁護する監督にたいする忠誠心を断固まもりぬく人物と評されるようになった。

彼が社の将来を一本の映画にかけたのは、キューブリックのプロジェクトが初というわけではなかった。一九六五年に公開されたデイヴィッド・リーンの三時間におよぶ大作『ドクトル・ジバゴ』は、スペインとフィンランドでの困難つづきの十ヵ月の製作期間中にコストが七百万ドルから千五百万ドルへと倍以上に膨れあがっている。マドリード近郊のMGM敷地内に千人近い人手と半年間という時間をかけて四万平方メートルにおよぶ広大なセットが組まれたが、その費用もいっさい減額されることはなかった。イベリア半島に夢のように冬のモスクワが立ちあがると、オブライエンは社内の反対意見を押さえつけ、会社はリーンがヴィジョンを実現させるために必要とするツールをすべて提供すると保証した。そして彼は賭けに勝った――『ドクトル・ジバゴ』は多くの観客に支持される大ヒットとなり、初公開時だけで総収益は一億一千二百万ドルにのぼったのである。(同書504505ページ)

 

参考:『ドクトル・ジバゴ』予告編

(4)に続く

 

 

作成・編集:QMS 代表 井田修(201944日更新)