「応仁の乱」に見る創造的破壊とイノベーション(2)

 

「応仁の乱」に見る創造的破壊とイノベーション(2

 

(1)より続く

 

 さて、応仁の乱というくらいですから、その影響はまず戦い方に見られるはずです。

 

両軍の当初のもくろみに反して戦乱が長期化した背景には、戦法の変化がある。まず、防御施設の発達が挙げられる。その代表が井楼である。井楼とは、戦場で敵陣を偵察するために材木を井桁に組んで構築する物見櫓のことである。(中略)応仁の乱で構築された井楼はより大規模なものだった。(中略)東軍も大井楼を設営した。上に登ると「諸軍営」が一望できたという。

(中略)応仁の乱では攻城兵器も使われた。応仁二年の正月、東軍は大和国から工匠を呼び寄せ、「発石木」を作らせたという。要は投石機だろう。(中略)戦乱の進展につれて、京都のあちこちで「構」、すなわち要害が築かれていった。(中略)両軍が陣を堀や井楼で防御したため、京都での市街戦は実質的に“攻城戦”になった。

(中略)戦局打開のための新戦力として浮上したのが足軽である。足軽は、甲冑などを着けない軽装の歩兵である。応仁二年(1468)三月中旬、東軍は足軽を動員し、下京(京都の二条通以南)を焼き払わせた。これは西軍の駐屯地・物資集積地に打撃を与え、兵力・兵粮の補給を阻害するための作戦だったという。

(中略)近年の研究は、足軽の跳梁を大都市問題として捉えている。すなわち、慢性的な飢饉状況の中、周辺村落からの流入により新たに形成され、そして着実に膨張していく都市下層民こそが足軽の最大の供給源であった。(「応仁の乱~戦国時代を生んだ大乱」呉座勇一著・中公新書105111ページ、段落分けは引用者による)

 

兵器のイノベーションというと、歴史的には鉄砲の伝来のほうが大きな意義をもつでしょう。応仁の乱の頃には、こうした意味での兵器のイノベーションというのは、特筆すべきものは見られないようです。

 兵器というよりも、井楼(の大型化)や発石木のような構築物が改善・改良されていったり、屋敷を守る構えや溝など土木工事の技術が発展したりしたのではないかと想像されます。その一方で、戦い方には大きな変化が起こったようです。それは、京都という都市を主戦場として応仁の乱が始まったことに由来します。

 

一般に市街戦を戦うには、二つの特徴があります。

ひとつは、個々の兵士が近接して戦うことになりがちなので、敵を一気にすべて殲滅するわけにはいきません。敵が撤退しない限り、戦いは続きます。これは、現代でも世界で起こっているさまざまな紛争をみれば想像がつくでしょう。

そこで、戦いには時間がかかるようになります。関ヶ原の合戦が1日で終了しているように、野戦は比較的短期間で勝敗がつく傾向にありますが、攻城戦や市街戦では、長期間の戦いになりがちです。籠城ともなれば、戦国時代でも何ヶ月も続くことがよくあります。

その結果、攻城戦のように最後には城を明け渡すなり、攻めていた側が諦めて撤退するなり、何らかの形で結果(勝敗)が明らかになればいいのですが、城や街をすべて破壊するという形で結果がはっきりすることは、そうそう起こりません。都市のなかで歩兵同士が戦う市街戦の場合、別のところで停戦協定が結ばれることはあっても、個々の戦いでは結果が不明瞭になることがしばしば起こります。

以上が市街戦の第一の特徴である、戦いに時間がかかって結果がはっきりしないことです。

 

 もうひとつは、兵士と市民の区分が不明瞭になりがちという特徴です。

大都市における市街戦でなく、たとえば平原における大規模な野戦(会戦)であるとか、海の上や空中における近代兵器による戦いとなると、兵士として専門に訓練を受けたものでないと、兵器の扱い方ひとつをとっても戦うことができません。

大都市における市街戦となれば、第二次世界大戦のときのヨーロッパにしても、現代の各種の紛争・戦闘においても、正規軍の兵士同士による戦いだけでなく、都市ゲリラや市民テロリストなどの非正規軍も戦うことが実によく見られます。これは、戦うのに必要な武器が「軽い」ということもあります。銃器や手榴弾程度のものであっても、十分に戦うことができますし、いざとなれば石や木材などを勝手に転用することで武器とすることも可能です。

応仁の乱においては、そうした戦い方が足軽という軽装の歩兵を生み出すとともに、足軽への人材供給源としての都市下層民の存在にも着目する必要がありそうです。現代でいえば、たとえばISISであれば、インターネットを通じて宗教的なプロパガンダを行うことで、グローバルに都市下層民(注4)を聖戦の兵士としてリクルートしていますが、応仁の乱の当時は、宗教的な要素をなくして、単に兵力としてリクルートしたのが足軽だったのかもしれません。

足軽という存在は、兵力を京都から離れた分国から移動して投入しなければならない守護大名にとって、京都市内や近隣の余剰人員(武士でないどころか、農業・商業・工業などに従事していない人々)がいれば、それらを兵士として動員するほうが効率的でもあります。

こうして見ると、戦い方の変化は、足軽の活用とその前提となる兵力の現地調達、それを可能とした都市下層民の存在を組み合わせて活用していったことこそが、イノベーションと呼べるものかもしれません。

そして、そのもとには都市下層民が生じてしまう、京都という当時最大の大都市が主戦場となったことが原因と言わざるを得ないでしょう。いつの時代にも、都市はもともと消費地であって生産地ではないため、生産地は消費地の周辺に整備されるか、遠国から物資を運び込むことによって成立します。これは、現代でもそうですが、江戸時代の江戸や大坂をイメージしても理解できるでしょう。

 

また、足軽の働きに報いる方法も一考すべきポイントがありそうです。

鎌倉時代以来の一所懸命という武士の規範が都市下層民にはあり得ません。所領を安堵するという形での報奨の基礎がないのが、足軽という存在です。雇い主である守護大名は、所領を安堵するという形で報奨を与えるのではなく、報奨も現地調達であり自力救済で行わせるしかありません。何しろ、京都市内での戦いに勝ったところで、新たな土地を獲得できるわけでありません。雇い主としては、足軽が戦った相手のもつ武器・武具や金銭を奪うことを奨励しなければ、足軽も雇い主のために戦うことはしないでしょう。都市下層民の立場でいえば、足軽のほうが単なる野盗よりはましという程度かもしれません。

現代的にいえば、報奨も自己責任、雇い主は勝手に奪うのを黙認するだけでよいので、報奨制度について考えを巡らせる必要もありません。この点からも、足軽は、雇い主にとっても極めて好都合で合理的な存在です。

こうした報奨のやりかたも、必要から生まれたイノベーションと呼べるかもしれません。というのも、安定した主従関係ではなく、傭兵(というよりも都市ゲリラとかテロリストに近い存在)のようであり、一時的でそのときその場だけの関係である足軽は、分国(守護大名の所領地)に連れて帰る義務もありません。農業という土地に縛られる関係を土台としてきた関係からみれば、それを土台から崩壊させているのが、市街戦の戦力となった足軽という存在といえるでしょう。

 

現代の企業で考えてみましょう。

足軽のような人材の供給源といえば、たとえば業績不振により大規模な人員整理に追い込まれた企業から放出される人材かもしれません。現に、そうした人材を意図的・意識的に採用することで、自社の人的資源をレベルアップする企業もよく見られます。

そうして獲得した人材のもつ社外ネットワークを活用できると、新たに採用した企業にとっても大きな収穫となります。また、新たに放出された人材をいかに獲得して活躍してもらうのか、これは新興勢力にとって普遍的な課題と言えるかもしれません。

こうした人材への報奨も、一般の人材と同様というわけにはいかないでしょう。より短期的で結果に対して報いる要素が強くなるはずです。そのため、意識的にバラバラに配属して、個としての力量を見るのがポイントとなりそうです。応仁の乱での足軽が完全に近い自力救済であったとすれば、こうした人材も自分の実績をアピールできるようにしておくことが求められるでしょう。

 

 このように、戦い方の面から応仁の乱を見てみると、兵器や戦術といった面よりも、足軽という現地調達可能な兵力の存在とそのマネジメントのありかたにこそ、イノベーションが見られるではないでしょうか。

 

(3)に続く

 

【注4

こういう表現が適切であるとは思えません。しかし、少なくとも欧米諸国の都市部に難民や移民として流入した人々およびその第2世代・第3世代で失業している若年層を中心に、人材を引き付けていることは事実でしょう。

 

 

作成・編集:QMS 代表 井田修(201751日更新)