「応仁の乱」に見る創造的破壊とイノベーション(1)

 

「応仁の乱」に見る創造的破壊とイノベーション(1)

 

 昨年読んだ本のなかで、「応仁の乱」という新書がありました。書名の通り、応仁の乱について、興福寺別当を務めた2人(経覚と尋尊)の日記を主な原史料として書かれたものです。

 

 さて、応仁の乱といえば、どのようなイメージをおもちでしょうか。

足利将軍家や管領諸家をはじめとして全国の守護大名が東西に二分されて10年超も続いた日本史上最大の内戦とか、京都の西陣という地名はこの時に西軍の陣地があったことに由来するという程度の知識しか、もともと筆者にはありませんでした。そこで、改めて応仁の乱について知るところから、この本を読みました。

 応仁の乱について筆者が極めて浅い理解していないことも、もしかすると無理がないのか、この本では「はじめに」でこう書かれています。

 

 応仁の乱が難解なのは、なぜ戦乱が起こったのかよく分からないし、最終的に誰が勝ったのかもよく分からないからだろう。応仁の乱は応仁元年(1467)から文明九年(1477)まで十一年にわたって繰り広げられた大乱である。(中略)応仁の乱勃発当初は京都のみが戦場であったが、やがて戦乱は地方に波及し、全国各地で合戦が行われた。これだけ大規模で長期にわたる戦乱なのに、大名たちが何のために戦ったのか見えてこないというのは不思議である。(「応仁の乱~戦国時代を生んだ大乱」呉座勇一著・中公新書よりⅰ~ⅱページ、以下の引用はすべて同書より)

 

 実際、専門家の間でもさまざまな見方・捉え方があるようで、歴史学上、応仁の乱の意義は、未だに定まっていないのかもしれません。

 そのなかで、応仁の乱の意義を最も高く見出した歴史学者のひとりが、戦前の邪馬台国論争のリーダーの一人でもあった内藤湖南だそうです。

 

 なぜ、内藤は応仁の乱に他の戦乱とは異なる特別な意義を見出したのか。それは、応仁の乱が旧体制を徹底的に破壊したからこそ新時代が切り開かれた、と考えたからである。(中略)内藤によれば、応仁の乱によって戦国時代が到来し、世の中が乱れに乱れたことは平民にとっては成り上がれるチャンスであり、歓迎すべきことだったというのである。(同書ⅲページ)

 

 歴史学の現在の研究では、こうした内藤湖南の考え方(注2)は必ずしも支持を得ているというわけではないそうですが、応仁の乱およびその前後の政変(注3)を通じて、室町時代が戦国時代へと変わっていったことは間違いないでしょう。

 

 この本を読んでいくと、応仁の乱が何を破壊し何を創造していったのか、少しは考えることができるような気がします。少なくとも、社会システムにイノベーションを起こすには、社会の何を課題として認識しておくべきか、またその解決へのアプローチとして効果的なものは何か、そうしたことを考える材料とかヒントになりそうなものを、次回以降、ご紹介していきたいと思います。

 

(2)に続く

 

【注1

応仁の乱(または応仁・文明の乱)については、たとえばウィキペディアに概説されています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1

 

【注2

内藤湖南の講演録「応仁の乱について」(表記は旧漢字)は、青空文庫で読むことができます。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/1734_21414.html

 

【注3

6代将軍・足利義教が赤松満祐・教康親子に殺害された「嘉吉の変」(嘉吉元年(1441))と、管領・細川政元が日野冨子・伊勢貞宗と図って10代将軍・足利義材を廃し11代将軍・足利義澄を擁立したクーデター「明応の政変」(明応二年(1493))のこと

 

作成・編集:QMS 代表 井田修(2017424日更新)