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中小企業における人への投資(7)~働く環境への投資~

中小企業における人への投資(7)~働く環境への投資~

 

人への投資の投資対象として盲点になりがちなのは、働く環境に投資することかもしれません。働く環境には、人間関係や組織風土や企業文化などのソフト面での環境もありますし、ハード面の環境もあります。また、制度的な環境や業務システムといった環境もあります。

こうしたものは、人への投資とは言っても、財務経理上は投資というよりも日常的な経費支出の対象が大半です。特に中小企業は、いきなり本社ビルを建てたり開発や物流の拠点を一棟借りしたり寮や社宅をいくつも保有したりするわけではないでしょう。日常的な活動に要する部分で、多少の費用を掛ける程度ではないでしょうか。

 

ハード面の環境というのは、文字通り、組織のハードにおける環境であり、物理的化学的な環境ということです。オフィスの立地条件に始まり、建物の構造や建築材料、空調や水回りの機材や衛生状況、IT・通信の機材や技術レベル、音や光の状態など、整備すべき条件は多岐にわたります。リモートワークが一般化している現在、リモートワークを行う場所のハード面での環境を整備する必要性も無視できません。

海外の大手テック企業では本社や研究開発拠点をキャンパスと称して、単なるオフィスではなく創造の場とすることを企図しているものが昔からあります。リモートワークが普及したこともあり、大手企業ほどオフィスに集う意味を再検討しなければならない段階に来ています。

こうした面に積極的に投資するという経営スタンスが、人への投資をしていることにつながります。といっても、中小企業では多少のコストを追加で掛ければよい程度ですが。

 

制度的な環境と言えば、まずは定款や取締役会などの法的な制度や社内組織分掌や就業規則や経理規定など社内で定められている様々なルールがあります。ここに内規などの運用上の細則や書式類があり、更に暗黙のルールや不文律などの目に見えない決まり事も加わる上に、企業文化などのソフト面での要素が絡んで、制度が複雑になり無駄な時間・労力・コストがかかりがちです。このような無駄な時間・労力・コストをどこかのタイミングで大幅に見直し、社員が無駄な事務的作業をしなくても済むように、プロジェクトを立ち上げるのも、人への投資の一種と言えます。

福利厚生施策のうち、寮や社宅など従業員に直結するものを拡充させるというのも人への投資のひとつには違いありません。また、財形貯蓄や持株会なども制度的な投資でしょう。社会保険とは別に自社独自で付保する保険や年金なども同様です。

福利厚生と言っても中小企業ではなかなか整備するスタッフも資金もないため、専門機関の提供するカフェテリアプランなど社外のプログラムに相乗りすることも多いでしょう。とはいえ、これらも拡充させればよいというものでもありません。個々の従業員や役員のニーズに応えているかどうかが問われます。

人によっては、福利厚生プログラムよりも、休日や休暇を多くしてほしいとか、育児や介護に充てる時間を柔軟に使えるようにしてほしい(ので在宅勤務を原則としたい)という人もいれば、福利厚生プログラムも休日休暇もいらないので、とにかく金をくれという人もいるでしょう。特に、起業を志している人や留学希望者、できるだけ早期にリタイアしたい人など、その人なりのキャリアプランにもよるでしょう。中小企業こそ、従業員や役員一人ひとりの処遇上のニーズに応えていく姿勢が望まれますし、規模が小さいからこそ、柔軟に個別的な措置をとることが可能なはずです。

 

中小企業の場合、現実には、人的資本としての人への投資以前に、安全衛生面で必要な措置としての費用をかけるという意味での投資を行うべきかもしれません。例えば、次のような実態に関する記述(注18)があります。

 

東京の労働災害の死傷者数は、リーマンショックの翌年の平成21年は9,101人と最少を 記録しましたが、令和3年には12,876人となっており、令和元年から3年連続で1万人 を超える状況であり、平成27年以降7年連続で増加しています。また、東京の労働災害に よる死亡者数が令和3年は77人となり、令和2年と比べるとほぼ2倍増となりました。(「グラフで見る東京の労働安全衛生(令和4年・東京労働局 労働基準部)」3ページより)

 

こうした傾向は東京に限ったことではなく、同じページに掲載されている全国の労働災害による死傷者もほぼ同様の傾向を見せています。

これを企業規模別に見る(前掲14ページ)と、労働災害の発生頻度を表す度数率は規模が小さいほど高くなっていることがわかります。これは大きな組織ほど、労働災害を防止するスタッフや資金を投じることができ、小さい組織ほどそうした経営資源が厳しく限られているからと思われます。

但し、子会社やグループ会社が雇用した者、人材派遣会社から派遣されている者、フリーランサーや業務委託者など雇用契約以外の契約形態で働いている者などを多く活用している大企業ほど、現場で働いているのが自社雇用の社員である比率が低下することも事実ですから、大手企業の職場の方が物理的に安全と断言できるわけではないでしょう。特に、複数の企業体が重層的な契約関係にある現場(建設、工場、倉庫等の物流拠点、交通機関の拠点、大規模な流通施設・飲食施設・宿泊施設・教育機関・医療機関など)では、労働災害があっても、被害に遭うのは自社の社員ではなく、他社の社員とか業務委託先の関係者ということが珍しくはありません。

ちなみに、直近10年の死傷事故の具体的な態様としては、発生率が高いものから順に、転倒、墜落・転落、動作の反動・無理な動作、はさまれ・巻き込まれ、切れ・こすれ、交通事故(道路)、激突、飛来・落下、その他、となっています。ここで言及されているのは物理的な労働災害に限られており、パワハラやセクハラに起因する自殺や精神的心理的な症状を呈するものも含まれていません。それらも広く労働災害として捉えるならば、労働災害を未然に防止することに必要な投資を行うことが人的資本経営の第一歩というべきかもしれません。

少なくとも、現に労働災害が起こっている組織においては、人的資本について検討する前にやるべきことがあるのです。この点、企業規模による違いはありません。

 

中小企業においては、事務所の内装を変えたり空調機器や事務機器をよりよいものに交換したりするだけでも効果があるケースもあります。もちろん、物理的なことでなくてもよいのです。福利厚生や休日休暇や労働時間や勤務場所の柔軟性など制度的なことでもかまいません。社員が少ないからこそ、個々のニーズに応えても投資というほどのコストもかかりません。

その一方、労働災害などが起きると、多少は保険に入っていたとしても、損害賠償に応じる資金的な余力がある中小企業はそう多くはないでしょう。まして、会社自体が業務上過失などの刑事責任を問われたり、そもそも重大な労働災害を起こしたことによる信用失墜の影響が大きかったりして、事業が立ちいかなくなってしまうことが危惧されます。

そのようなリスクに対して、掛かる費用は過大なものではないことは誰にでもわかります。まして、土地を購入して本社や社宅を建てるという話ではありません。人への投資といっても、費用はさほど掛からないのです。要は、会社側の思い込みや押し付けによる施策ではなく、従業員や役員の個々のニーズに的確に対応したプログラムを実施すればよいのです。

ランチミーティングの11000円のランチ代を会社負担にするにしても、メニューがひとつで選択の余地がないのでは社員から不満の声も出るでしょう。1室に1000万円を掛けてリフォームした独身寮でも、入寮する新入社員から見ればプライバシーへの配慮に欠けると感じることがあれば、入寮を拒否するどころか入社を辞退することになりかねません。経営者が良かれと思って採った施策でも、社員本人のニーズとのギャップや選択の余地によっては、投資どころか経費的にも人的資本経営の面でもマイナスとなる虞があるのです。

 

(8)に続く

 

【注18

詳しくは、以下のサイトを参照してください。

001320184.pdf (mhlw.go.jp)

 

 

作成・編集 人事戦略チーム(2024412日)