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“ファクト”を考える3冊(2)~「〔新装版〕世界の調律~サウンドスケープとは何か」

“ファクト”を考える3冊(2)~「〔新装版〕世界の調律~サウンドスケープとは何か」

 

次に採り上げるのは、「〔新装版〕世界の調律~サウンドスケープとは何か」(R.マリー・シェーファー著、鳥越けい子・小川博司・庄野素子・田中直子・若尾裕訳、2022年平凡社ライブラリー)です。本書は、もともと1970年代にカナダの音環境(サウンドスケープ)研究者のシェーファーがそれまでの研究をとりまとめて将来のサウンドスケープ・デザインに役立てるガイドブックとしてあらわしたものです。日本版は80年代半ばに出て、2006年に平凡社ライブラリーとして再度出版され、2022年に出たのがこの新装版です。

サウンドスケープとか世界の調律という言葉は、あまりなじみがないかもしれません。音楽については21世紀のポップスですら、既に様々な調査や分析や理論化が行われていますが、それ以外の音、すなわち本書が調査・分析の対象とする風景としての音や人間が生み出す騒音といったものについては、必ずしも進んでいるわけではありません。特に、自分の好きな音楽のように意識的に聴いているものであればファクトとして収集・分析の対象となることがあるとしても、それ以外の日常的な音及び生活を取り巻く音環境については、そもそもファクトとして収集・分析する対象として自覚しにくいものでしょう。

本書は、そうしたサウンドスケープについてのガイドブックを企図してまとめられたもので、次の4部から構成されます。

 

第一部  最初のサウンドスケープ

第二部  産業革命後のサウンドスケープ

第三部  分析

第四部  サウンドスケープ・デザインに向かって 

 

本書においてファクトを直接収集するということは、現代であれば著者のような研究者が録音機材などを活用して現場に赴き、実際に録音することで可能です。しかし、録音によって音そのものは採録することができたとしても、採録された音の全体から個々の音を分離するとか、それらが何から発生した音か特定するといった作業は容易ではありません。まして、その音環境が人間に及ぼす影響となると、単なる録音作業ではファクトの収集もできません。

さらに言えば、過去の音は、ファクトとして発掘するには録音というわけにはいきません。そこで、第一部と第二部で古今東西の多種多様な文献資料を基に過去の音やサウンドスケープを描き出しています。

第一部では、ギリシャ神話やローマの叙事詩、北欧神話(エッダやサガなど)、聖書などに始まり、ウェルギリウス、トーマス・ハーディ、トーマス・マン、ヴァージニア・ウルフ、H.G.ウェルズ、ゲーテ、ハインリッヒ・ハイネ、オズワルド・シュペングラー、ヴィクトル・ユゴー、ヨハン・ホイジンガ、レフ・トルストイ、ニコライ・ゴーゴリ、ボリス・パステルナーク、サマセット・モームなど古代から近現代の著作のなかから縦横無尽に、自然のサウンドスケープや生命の音から田舎のサウンドスケープや都市の音を引用・紹介しています。

第二部では産業革命後の人間の活動(テクノロジー)が発する音について、ハーディやマン、D.H.ロレンス、スタンダール、エミール・ゾラ、ヘルマン・ヘッセなどの小説家とともに、ホワイトヘッドなどの哲学者や物理学者などの論考も引きつつ、録音された音や放送される音、オーケストラと工場のサウンドスケープから見た比較、飛行機や内燃機関の発する音(騒音)などについても言及しています。

ファクトを収集することができたとして、その次に行うのは集めたファクトを整理し分類したり体系化したりして、ファクトから何らかの意味を抽出することが求められます。その部分が本書では第三部になります。具体的には、音の表記と分類というファクトの記録・記述の方法論に始まり、音の知覚・形態学・シンボリズムに関する論考で音の解釈(意味づけ)について言及します。特に三次元で音及び音環境を記録し記述する工夫につては、音以外のものにも応用可能なものかもしれません。

そして、騒音(意味は見出しにくいが無視することができない音及び音の環境)に関する言及がなされます。サウンドスケープという場合、単に音だけが問題となるわけではありません。その音に対する人間の心情や社会的な音の解釈や音の環境が問題につながる以上、騒音の問題は避けて通ることができません。本書が取りまとめられた1970年代は、騒音を含めた公害問題や都市問題が先鋭化している最中でしたから、騒音なしでサウンドスケープを語ることはできなかったのでしょう。

本書の第四部は、実際のサウンドスケープを収集し記録するところ(ファクトの収集・整理)からスタートします。次に、音響生態学として音及び音環境が生体に及ぼす影響を考慮した上で、音響共同体としてサウンドスケープをデザインする原理や要点を概説します。最後に、水や風といった自然の音に立ち返り、沈黙のもつ意味や効果を解説します。

 

 音及び音環境という目に見えず記録することも容易でない対象についても、本書で紹介されるようにファクトの収集・整理・分析を行うことが可能です。前回紹介したソース焼きそばで言えば、味・風味・食感・香りなどその時その場で感じる事物について記録する際に参考となりそうなものも紹介されています。

 こうしたアプローチは、主観的な要素として切り捨てられがちな事象をファクトとして把握する上で応用できそうです。例えば、職場の空気感といった、ありそうではあるけれど特定しにくい事象について、いくつかの要素を明確化し、それぞれの要素ごとに適切な測定指標を設けて多次元で数値化し図表化することで、単なるアンケート調査では見えにくい事象を明らかにすることができるのではないでしょうか。

 本書が取りまとめられてから50年以上が過ぎました。建築現場や航空機、商業施設の放送など、町中の騒音は着実に減少してきたように感じますが、高精度のイヤホンを絶えず耳にして、趣味の音楽を聴いたりフロアでの指示を仕事中に受けたりして、私たちを巡る音の環境は今も大きく変化し続けています。改めて、音及び音環境についてのファクトを収集し、生理的・精神的・社会的にどのような影響があるのか、検証してみる必要があるでしょう。そして、沈黙や静寂がもたらす効果を考えてみる必要がありそうです。

 同様の事象や考察は、文字や写真や映像など音以外のものも一種の騒音のような存在物やSNSの公害に対する対処を検討する上で、重要なヒントとなるかもしれません。

 

 

作成・編集:QMS 代表 井田修(202427日更新)