除夜の鐘を聞くことがなくなって
子供の頃から21世紀の初めころまで、大晦日の夜には除夜の鐘が鳴り響いていた記憶があります。近くの大きな寺まで徒歩数分のところに住んでいますが、いつの間にか、多分、コロナ禍が決定的な契機となって、除夜の鐘が聞こえなくなりました。昨今は鐘の音がうるさいとクレームが寄せられることも多いようで、一部の地域を除いて、都市部や住宅地では除夜の鐘という風物詩が見聞きされない時代となったようです。
除夜の鐘は108の煩悩を表していると言われます(注1)が、煩悩とは何かの満たされない欲求と考えると、人間が生きている限り、何の煩悩もない瞬間は生まれた時と死ぬ時以外にはあり得ないでしょう。寒い、暑い、おなかが減った、というように、絶えず何らかの満たされない欲求はあるものです。それらを不満とも表現できますし、ビジネス上は未解決の課題とも認識できそうです。
こうした欲求が満たされていない状態のなかでも、特に生存が脅かされる時は恐怖が生まれるかもしれません。恐怖からは生存本能に従う反射的な行動しか生じないとすれば、犯罪や戦闘行為の一部はまさに恐怖に駆られて思慮に欠けた反射的な行動を取ってしまった結果でしょう。戦争やテロはその延長線上にあると言えそうです。
とはいえ、欲求がない人間というのは、生存が最も基本的な欲求である以上、存在するはずがないでしょう。また、欲求が全て満たされている世界というのも、理念的または思考実験上は存在するとしても、現実的にはあり得ません。
ただ、欲求の具体的な内容とか満たされるべき状態は、テクノロジーの発展レベルや社会のありかたによって、さまざまに異なるものです。特定の製作主体を除けばフィクションにおいては、20世紀の終わり頃には世界征服とか全人類を支配しようとする典型的な悪役にはあまりお目にかからなくなりました。その代わりでしょうか、現実世界では社会的課題の解決とか環境問題(特に地球温暖化)への挑戦がテーマとしてメインに据えられるようになっています。こうした動向は、よく言えば世界をより良くしようという欲求、悪く言えば自分は救世主という過大な自意識の表現に過ぎないのかもしれません。
考えようによっては、欲求がない世界は平和かもしれませんが、変革や進歩は起こりえないでしょう。人間の欲求こそがエネルギーの源というのは、SF、特にダークサイドのSFではよくある設定ですが、満たされざる欲求、即ち煩悩をもつことが変化を求める根源にあるはずです。
能登の大地震、羽田での航空機事故と立て続けに大きな事件が起こって2024年が始まりました。波乱や混乱の1年となりそうな年明けですが、予想外の大きな変化は必ず起きるが、いつ起きるかわからないだけと割り切って変化を乗り切るマインドをもつに越したことはありません。
昨年の年頭に、ジャニーズ事務所の名称が消えること、ビッグモーターやダイハツ工業の不正が明らかになること、宝塚や歌舞伎界での不祥事、アイスランドの火山噴火などを明確に予見できた人が何人いたのでしょうか。
必ず、大きな事件は起きるものです。具体的な対策を準備することはできないとしても、自然現象や不祥事には万一を頭の片隅に置いておくことは不可欠です。少なくとも、事後的にであっても、適切な対応を取ることだけは忘れてはなりません。特に組織の責任者は、いわゆる「責任の取り方」を自らに課しておくことは必須です。
一方、大きなトレンドはそうそう変わらないし、変えることもできません。例えば、日本や中国・韓国などの少子化・高齢化、インドやアフリカの人口増加、地球温暖化及びそれに伴う気候変動などは、短期的にも中期的にも変えようがないでしょう。そこから予想されるカタストロフやイベントは、発生確率を十分に考慮した上でシナリオとして想定するトレーニングを頭の中だけでも行っておきたいものです。そうすれば、突然の出来事を恐れる心配は不要ですし、徒に事件・事故を忌避しようとして何も行動できなくなる事態も防ぐことができるでしょう。
【注1】
数字の「108」に関わる各種の話題-「108」と言えば、除夜の鐘が撞かれる回数だが- |ニッセイ基礎研究所 (nli-research.co.jp)
作成・編集:QMS代表 井田修(2024年1月3日更新)