2023年夏の3冊(2)~「敗れざる者たちの演劇志」(付記)
前回のコラムで“若いころには演劇鑑賞が趣味だった筆者にとって、小劇場では一つの舞台において一観客でいることに体力や集中力が不可欠”と記したように、100人座ればいっぱいの桟敷席に200人が詰め込まれたり、スモークで客席が満たされて舞台が見えなくなったり、水や紙吹雪を頭からかぶったりしながら、2時間程度はそのままの姿勢でいるのが小劇場で芝居を観ることでした。
ザ・スズナリ(下北沢)、駅前劇場(下北沢)、OFF・OFFシアター(下北沢)、東演パラータ(下北沢)、シアターグリーン(東池袋)、ジャンジャン(渋谷)、タイニイ・アリス(新宿3丁目)、みゆき館劇場(銀座)、赤坂プレイボックス(乃木坂)、自由劇場(六本木)、駒場小劇場(駒場東大前)、スタジオあくとれ(中野)、明石スタジオ(高円寺)、シェイクスピア・シアターのアトリエ(高円寺)、ジェルスホール(大塚)、テアトルエコー(恵比寿の稽古場でしたが椅子席でした)、恵比寿Factory、青山円形劇場(表参道)、ブレヒトの芝居小屋(武蔵関)などによく行ったはずです。当時は、桟敷に胡坐で観るのが通例で、よくてベンチシートに着席して100人にも満たない客が舞台を観ていました。
黒テント(主宰は佐藤信)の「女殺し油の地獄」は、都立家政にあった劇団のアトリエで立ち見をしたり、第七病棟(主宰は石橋蓮司)の公演では民家を改造した上演場所が見つからずに荒川区内で迷子になったりしたこともありました。唐組では、紅テントで芝居を観ただけでなく、廃業した銭湯を改造したところで上演した「ビニールの城」を観たこともあります。
ここからは、筆者の個人的な演劇鑑賞史です。本書の巻末に付されている「年譜」(流山児祥が演出またはプロデュースした作品の上演史年表)から私個人が観た記憶があるもの(記憶違いもあると思われますが)をピックアップしてみましょう。
1982年
「改訂版・碧い彗星の一夜」「唇からナイフ」
「ザ・レビュー★月夜とオルガン」
1983年
「帝国月光写真館」「新邪宗門」「さらば、映画の女よ」「天狼騎士団」
1984年
「ザ・レビュー 虎★ハリマオ」「さらば映画よ、ファン篇」「冥王星の使者」「じゃがいもピストルの午後」「悪魔のいるクリスマス」
1985年
「碧い彗星の一夜◎Ⅱ」「危険な関係」「悪魔のいるクリスマス’85」
1986年
「フェアリー・テール」「3・14 SOULハード・ボイルドは二度死ぬ!」
「流山児版・最後の淋しい猫」「ラスト・アジア」
「さよなら、悪魔のいるクリスマス」
1987年
「やさしい犬」「男たちの後の祭り」「悪魔のいるクリスマス★アゲイン」
1988年
「グッドバイ或いは夏と石炭」「マクベス」「悪魔のいるクリスマス’88」
1989年
「寿歌」「寿歌Ⅱ」「青ひげ公の城」「流山児マクベス」
「悪魔のいるクリスマス’89」
1990年
「流山児ハムレット」「芸人たちの挽歌」
1991年
「プロメテウスの蛍~桜姫東文章」「流山児マクベス」
1992年
「おんなごろしあぶらの地獄」「ピカレスク・イアーゴ~オセロより~」
「メルヘン・ミュージカル 悪魔のいるクリスマス」
1993年
「ザ・寺山」「tatsuya~最愛なる者の側へ~」「女たちの桜の園」
「メルヘン・ミュージカル 悪魔のいるクリスマス」
1994年
「悪漢リチャード」「おんな・三匹!」「悪魔のいるクリスマス ラスト公演」
1995年
「青ひげ公の城」「ピカレスク南北~盟三五大切より~」
1996年
「ダフネの嵐」「焼跡のマクベス」
1997年
「OUT」「ザ・寺山」
これらの約50作品のうち、特に記憶に残っているものとして第一に「悪魔のいるクリスマス」を挙げることができます。
この作品は、在間ジロ(北村想の別のペンネーム)作・流山児祥演出で1984年12月に美加里(少女役)・塩野谷正幸(少年役)・九十九一(作家役)主演で下北沢の駅前劇場で初演されて以来、流山児が毎年12月に再演やミュージカル化などを繰り返したり、北村想演出によるプロジェクト・ナビ版が作られたりするなど、さまざまな作品が作られました。80年代の小劇場の中から生まれた小劇場の古典ともいえる作品です。
冬の夜の公園で、ままごと遊びのような行動を取っている少年と少女に作家と称する男が出会います。「寒くありませんか」と何度も問いかける男の前で、少年と少女は人間の行いからコンピューターで代替できるものを引き算すると、真に人間的なものが残るはずで、それは食べて飲んで眠るという日々の繰り返しだと問いかけるがごとく、ままごとのような遊びを続けます。そして、凍死したはずの3人の前に天使が降臨します。3人を天国に召すために地上に姿を現したのです。しかし、作家と称する男は眠りから覚め、天使を恫喝します。男はサタンであり、「さ」がつく仕事を続けながら神から地上に留め置かれた自らの存在を呪い、天使を追い返します。
ストーリーを覚えている限り述べると、こういう感じです。その初演から毎年、流山児の演出で10年以上見続けていました。初演で少年を演じた塩野谷正幸が作家を演じるようになったり、少年を有薗芳記や曽我泰久が演じたりしましたが、少女役は当時のアングラ・小劇場界で三大名花(注5)と言われた美加里に尽きる感じでした。なお、最後に観たのは、21世紀になってから名古屋で北村想が主宰するプロジェクト・ナビが上演したものでした。
北村想といえば、劇団四季のファミリーミュージカル「ふたりのロッテ」と中高生向けの歌舞伎入門公演(解説付き)しか観たことがなかった筆者が、自分の意思でチケットを購入し、全編を初めて見通した作品「不思議の国のアリス」(伊藤つかさ主演、シアターアプルで上演されたミュージカル)の作者でした。この作品の演出・振付を担当した竹村類は「演劇団」創立時に振付を担当していた人でもあります。そこから北村想の作品を観る機会が多くなり、流山児演出の作品にも触れる機会が多くなっていきました。その二人の生み出した伝説的な作品が「悪魔のいるクリスマス」だったと言えます。
「新邪宗門」は、本書の年譜の脚注「出来事」の欄にあるように、“5月4日、寺山修司死去。本番前日、寺山さんが亡くなる。黒ヘル、鉄パイプ、革命歌の渦巻く騒然とした黒衣たちによる観客挑発劇”です。開演前に本多劇場の通路に観客全員が並ばされ、列を乱そうものなら黒づくめの集団に鉄パイプで殴られそうになる中で、大音響の音楽が鳴り響き、芝居が始まります。その列にいたことを強く思い出します。
それまでは映像作家としての寺山修司しか知らなかった筆者に、演劇人としての寺山修司を体験させてくれたのが、流山児祥でした。その後も「さらば映画よ、ファン篇」「青ひげ公の城」といった作品で寺山修司の世界を知ったり、「ザ・寺山」でその影響を垣間見た気がしました。もちろん、これらを入り口に、岸田理生や和田喜夫(楽天団)や美輪明宏などを通じて寺山修司の作品世界を多く知ることになります。
「ラスト・アジア」は、装置の大きさや借景としての工事現場にまず驚かされました。用賀駅周辺にまだ高層ビルがひとつも建っておらず、その基礎工事が始まっていたかどうかという時期に、空き地(建設予定地)で野外劇を行う企画でした。観客の目には、舞台となる土の山とその向こうに見える首都高速道路が照明に浮かんで見えて、開発途上のアジアを体感させられた覚えがあります。
野外劇というと、それまでは川村毅が主宰する第三エロチカが「ニッポン・ウォーズ」を上演した利賀フェスティバルくらいしか観たことがなかったため、都市の工事現場も舞台になることへの驚きがありました。
「ラスト・アジア」はその川村が本を書き、佐藤信が演出を担当しました。スタッフとともに、様々な劇団の役者たちが一堂に会するのもプロデュース公演の魅力ですが、この作品は更に体を張る迫力も堪能できた作品でした。1回しか観ていないにも関わらず、強烈な印象が今も残っています。
流山児は映画「血風ロック」を監督したり、いくつもの映画やテレビドラマに出演したり、商業演劇の主演俳優としてロベール・トマ作の翻訳劇「罠」で主人公ダニエルを三越劇場(だったと記憶していますが間違っているかもしれません)で演じたりするなど、多種多様なシーンで芝居を作ることに関わり続けてきました。
昨年も相変わらず年間8作品をプロデュースし、うち4作品で演出も行うなど、70歳代後半でも若いころと変わらないペースで芝居を作り続けている姿は、生涯一演劇人であり続けています。本書のタイトルのように、敗れざる者ではあっても、そこに留まらずに更に走り続けようとする姿には敬服するしかありません。
【注5】
あとの二人は、流山児祥とともに「演劇団」を作った北村魚と、当時はブリキの自発団(主宰者は生田萬)の主演女優だった銀粉蝶だったと思います。
作成・編集:QMS 代表 井田修(2023年9月10日更新)