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“正しい”努力(6)

“正しい”努力(6)

 

さて、“正しい”努力、すなわち、求める結果が適切なものであり、結果に至るプロセスや方法を本人が的確に見通すことができており、求める結果やそこに至るプロセスについて本人も納得していて「やらされ感」がなく、具体的な手段や方法が合法的・合理的・経済的・倫理的で世の中の変化に対応しているものであるとして、その“正しい”努力を行動に移せば、それですべてがうまくいくのでしょうか。

もし、スキルも身につきそれなりに結果が出れば、報奨面でも恵まれるのだろうと思われますが、これだけでは多分、並みの人材しょう。なぜなら、モデル化された人材のコピーにはなれても、自ら目指すものが仕事の結果や報奨以外に見つからないのではないかと思われるからです。

ここで最も重要で欠けているものは、努力を意識しない「努力」というか、無我夢中でやる状態とか、とにかく楽しいから次から次へと課題を見つけてはクリアするという習慣的な行動です。できてうれしいから次にチャレンジする、ということを無意識のうちに繰り返すようになっているのであれば、正にそれが“正しい”努力を現にしているのです。

言い換えれば、仕事の中に楽しさがないと、つらいとか手を抜くとか人に無理強いするとか騙すとか放り出すといった方向に、いずれかのタイミングで走りかねません。努力をしても楽しくない、努力は義務や強制だから楽しいはずがない、という先入観に縛られたまま仕事をしている限り、“正しい”努力が習慣化されることはないでしょう。

ルールや手続きに縛られた作業が仕事だから、仕事の中に自己決定権がなくて当たり前というのでは、仕事の中に楽しさは感じられません。また、所属する組織のビジョン・ミッション・バリューに縛られていると感じることがある人も相当程度いることでしょう。自分の価値観ややりたいことが、たまたま入社した会社のビジョン・ミッション・バリューに一致することなど、そうそう起きることではありません。

ちなみに、「努力家」とか「よく頑張って努力している」というのは、決して誉め言葉ではりません。結果は出ていないし、これといって目立つ成長もないから、周囲の人は他に言いようがなく、努力を認めるしかないのです。しかし、そうした無理(正しくない努力)は、長くは続きません。

一方で、楽しく課題をクリアしている人は、無理をせずに気がつくと成長しています。スキルが身につくだけでなく、より高いレベルの課題に気がついて克服していくことで、より高く広い視野をもつことにつながります。本人の成長に視野が高まり広がることは不可欠です。

楽しさとは、人に評価されるとかご褒美を貰えるといっているのではダメで、いわゆる真善美の追究に喜びを感じることとか、真善美に近づくことで得られる満足感といったものかもしれません。

本当の意味で“正しい”努力をし続ける人のことを、天才と呼ぶのかもしれません。第三者には努力のプロセスや意図しているゴールは見えず、結果しかわからないから天才と呼ぶしかないのですが、“正しい”努力を年単位の期間、続けているのであれば、「天才」か少なくとも「逸材」くらいには評されるでしょう。

圧倒的多数の人は、仮に“正しい”努力をできたとしても、どこかのレベルやタイミングで、もうこれ以上、努力を継続することができない状況に陥ります。その状況をいつも突き抜けることができた人を、世の中の人々は天才と呼ぶのでしょう。

すべての人が天才になりうるはずもないのですから、“正しい”努力がどういうことか理解した上で、無理なものは無理と諦めたからといって、何も問題はありません。仕事をしていても楽しさが感じられなくなったら、そこが自分の努力の限界と悟ることも必要です。そこを無理矢理突破しようとすると、結局は周囲の人々(同じ組織の関係者、顧客や取引先、コミュニティや規制当局、広く社会全体に至るまで)に迷惑をかけることになるのです。

仕事以外のこと、遊びや趣味、家族や友人との関係の中などにしか、楽しさを感じたことがないという人も多くいるでしょう。それはそれで、仕方がないことです。すべての人が仕事の中に楽しさを感じるわけではないでしょう。だからこそ、仕事は生活の糧を得るための手段と割り切ることも必要なのです。仕事以外の場で“正しい”努力をすることも大事です。

 

(7)に続く 

 

  作成・編集:経営支援チーム(202387日)