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気候変動の何が問題か?(2)

気候変動の何が問題か?(2)

 

前回は、近現代の年単位の気候の変化について東京の冬の気温を例にとってみましたが、今回は100年単位で気候変動がどのように社会にインパクトを及ぼしてきたのか見てみましょう。

『荘園~墾田永年私財法から応仁の乱まで』(伊藤俊一著、中公新書2662)という荘園に関する研究を紹介した本があります。荘園という日本独自の私有農園の仕組みや設立・運営の経緯などを、個々の具体的な荘園に関する記述を多く含んで述べており、その中で古気候学の研究成果も踏まえて荘園の動向が記されています。

以下、同書の記述に従って、古代から中世にかけての気候変動とその影響を紹介します。なお、漢数字を英数字に変えています。

 

最初は古代に起きた気候変動についてです。

 

864(貞観6)年から富士山が噴火し、868年には播磨国を震源とする地震が起こった。翌869年には貞観地震と呼ばれる大地震が東北地方の太平洋側で発生し、大津波が襲った。……

疫病も流行し、861(貞観3)年には平安京で赤痢が大流行して多くの子どもが亡くなった。……

洪水も繰り返し襲った。木曽川水系では865(貞観7)年の大洪水など、たびたびの洪水によって木曽川の本流が南に移り、両岸の尾張国と美濃国との間で境界争いが起こっている。

9世紀後半に頻発した水害は、気候変動の結果だったことが近年明らかになっている。……世界を八つの地域に分けて過去2000年間の気温の変動を明らかにするPAGES 2K Network のプロジェクトが行われ、東アジアでは西暦800年以降のデータがまとめられた。……9世紀前半までは乾燥気味で安定していたが、9世紀後半には湿潤が転じて不安定化し、洪水と旱魃が交互に起こった。10世紀には一転して乾燥化が進み、10世紀半ばの乾燥した気候は1000年単位で見ても異例なもので、農村は厳しい試練にみまわれたはずだ。

かつて10世紀は中世温暖化がはじまり、ヨーロッパでは農業生産力が向上した時代と言われた。日本では10世紀の気温は高めだが、日本列島では気温が上がると降水量が減る傾向にある。温暖な気候は稲の成長に有利ではあるが、雨が降らなければ元も子もない。ヨーロッパの麦作と日本の水稲耕作とでは、同じ気候変動でも結果は違ってくる。

考古学の研究のよっても、9世紀後半には古代村落が危機に陥ったことがわかっている。千葉県君津市内の常代遺跡では、5世紀の中頃に成立し6世紀には大きな用水路が掘られた。律令国家が成立した8世紀には集落は拡大し、用水路も改修して維持された。ところが9世紀に入ると建物は不明瞭になり、後半には用水路が使われなくなり、集落も消滅したとみられる。……

長野県千曲市の屋代遺跡では7世紀から9世紀にかけて5度の洪水にみまわれたが、その都度、水田が復旧されていた。ところが888(仁和4)年に洪水が襲ってからは復旧が行われることはなく、10世紀には集落が途絶えてしまった。

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 火山の噴火や大地震や大津波、疫病の流行など、21世紀の第1四半世紀とあまり変わらないのではないかと思わざるを得ません。その一方で、異例な乾燥化が進んだ10世紀には旱魃と洪水が交互に起こった結果、古代から続いていた村落(集落)が荒廃し、土着の有力者であった郡司クラスが衰退するなど、農村のありかたが大きく変わるようになっていったのです。

 同時に、荘園(農業)経営に力を発揮する人々が台頭し、税の徴収を重視する国司層との対立から、中央の権門(摂関家など)との結びつきを強める動きが出始めるなど、荘園を含む農村の変質を招き、社会のありかたにも変化が訪れるようになったようです。

 

次に、寛喜と正嘉の2度にわたる飢饉が起こった鎌倉時代の気候変動について紹介しましょう。

 

1230年の夏は異常な冷夏になった。69日(新暦727日)には中部地方から関東地方に雪が降り、……京都に住む藤原定家も、寒さで綿入りの衣を取り出して着た。……

大凶作が決定的になると人びとの間に不安が広まった。10月に定家は庭の植木を掘り捨てて麦畑を作らせている。ところが冬になると異常な暖冬になった。……早熟した麦は実が入らない遅れ穂になってしまい、人びとは貴重なつなぎの食料を失った。

米は尽き、麦も実らなかった翌1231(寛喜3)年6月には、道路や河原に餓死者の死体が満ちた。……

秋の収穫期になると飢餓は一息ついたが、旱魃のため収量ははかばかしくなかった。……翌1232年は4月に貞永と改元されたが、飢饉は依然として止まず、5月には河原に餓死者が満ち、6月にかけてインフルエンザと思われる咳病が流行した。……

PAGES 2K Network がまとめた東アジアの夏季平均気温を見ると、1231年は90年ぶりの低温、32年は112年ぶり、33年は西暦800年以降の最低気温、34年にはこれを更新して現代至1200年間の最低気温を記録している。その後も低温が続き、1230年並みに戻るのは1238年になってからだ。……異常気象の原因は、エルニーニョ現象によるとも言われているが、よくわかっていない。

寛喜の飢饉から20数年後の1258(正嘉2)年には、再び異常低温による正嘉の飢饉にみまわれた。この異常気象は、前年の710月の間にインドネシアのリンジャニ火山群サマラス山で起きた大噴火の噴煙が太陽光線を遮ったのが原因と考えられている。このときも6月が2月や3月のような天候で冬のような寒気が訪れ、8月には幾度も台風が襲った。……

飢饉は翌年も続き、7月に日蓮が前執権の北条時頼に提出した「立正安国論」には、天変地異や飢饉・疫病が天下に満ち、牛馬はたおれ、人の骸骨は道にあふれている、命を失ったものはすでに過半に及び、この惨状を悲しまない者は誰一人としていないと記されている。……

寛喜の飢饉は低温化の度合いと期間からすると日本史上最悪の飢饉だったかもしれず、ほどなくして正嘉の飢饉が襲ったダブルパンチは、聖武天皇の頃に天然痘で人口の3分の1を失って以来の危機だったと考えられる。

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 ここで言及されている異常な低温による気候変動は、直接には政治体制や社会構造の変化などには結びつかなかったようです。鎌倉幕府が朝廷とも連携してしっかりと機能していたことが大きかったのかもしれません。

それでも、民衆の間には新たな宗教(日蓮宗)が普及する契機ともなったり、一般の人々の寿命が短かったと推定されたりというように、個々の人々の生命や生活の保障・安定という点では、一般の人が人並みの生活を送ることが困難を極めました。その原因として、やはり気候変動(この場合は気温の歴史的な低下)を挙げることができます。

 

最後に、鎌倉末期から応永の飢饉や寛正の飢饉に見舞われる室町時代半ばの気候変動について見てみましょう。

 

播磨国矢野荘では1349年、50年、53年と大洪水にみまわれ、山城国上野荘でも1350年、54年、56年に洪水が襲い、140年ぶりに桂川の河道が変わった。木曽川の河岸に立地した尾張国大成荘(愛知県愛西市)では、1357(延文2)年頃に洪水が多発し、堤防が決壊している。この厳しい時期が南北朝内乱のもっとも激しい時期に重なるのは興味深い。

 室町時代に入った1400年代からは一転して少雨傾向になり、各地で旱魃にみまわれた。矢野荘では1408(応永15)年と15年、141820年の3年連続で大旱魃にみまわれている。……

 打ち続く旱魃の結果、1420(応永27)年から翌年にかけて応永の飢饉が起こった。この年の春から夏は異常な少雨で、新暦4月は5日、新歴5月は3日しか雨が降らなかった。平均では10日降るはずだ。……あちこちの荘園で用水をめぐる争いが起こった。……

 旱魃が続いた反動か、1423(応永30)年からは一転して多雨傾向になり、各地で洪水が頻発した。……1429(永享元)年の新暦9月末、桂川に再び大洪水が襲い、山城国上野荘では荘域全体が壊滅し、土砂に覆われた白河原になってしまった。……

一転して1433(永享5)年には深刻な旱魃が襲った。播磨国矢野荘では、それまででもっとも多い3分の2の年貢が免除された。……

この時期の気候には異常なことが起きていた。気温が1423(応永30)年から急上昇をはじめ、1427年には約100年ぶりの高温になったのだ。しかも通常は気温が上がると降水量は減るのに、このときは降水量も増えて1429(永享元)年には40年ぶりの高水準に達した。……1432年から気温・降水量ともに下がりはじめるが、翌33年には70年ぶりの少雨となり、大旱魃が起きている。

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1450年代には気温が急降下し、降水量も増加して145555(享徳3~康正元)年には167年ぶりの雨が2年連続して降り、145559(康正元~長禄3)年にかけては、220年前の寛喜の飢饉のときに次ぐ低温の年が続いた。こうした悪天候が続いた結果、14591461年にかけて、寛喜の飢饉と並ぶ中世の二大飢饉である寛正の飢饉が発生した。

1459(長禄3)年は田植えの時期から夏にかけてなかなか雨が降らず、新暦10月はじめに台風が数度襲来した。この年の稲の収穫は惨憺たるもので、矢野荘では9割の年貢が免除された。翌1460年の……新暦6月末には寒波が襲い、人びとは冬服を着た。……

飢饉の本番は3年目の1461(寛正2)年だった。応永の飢饉のときと同じく人びとは京都を目指した。……新暦4月中旬には賀茂川の河原に死体が満ち、洛中の死者は82千人に上った。これはある僧が死人の一人一人に卒塔婆を置いた結果なので正確な数字だろう。……

低温多雨の気候は1480(文明12)年頃まで続き、人びとはさらに20年間も厳しい気候に耐え忍ばねばならなかった。

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 100年ほどの間に、洪水に旱魃、異常な低温に大雨、更に旱魃と、異常気象の連続です。政治体制も鎌倉幕府が滅び、建武の新政から南北朝を経て室町幕府となります。しかし、その室町幕府も、しっかりと機能する間は短く、政変が続いて、結局は応仁の乱へと進みます。特に寛正の飢饉は応仁の乱を引き起こし長引くことになった大きな要因でしょう。

 

これらの記述から推測されるのは、1001000年単位でみれば、原因は何であれ、気候変動は必ず起きるものであって、それへの対応がしっかりとできることが政治体制には求められます。ただ、気候変動への対応をしていくプロセスで、社会のありかたが変わることにもつながります。

本書『荘園~墾田永年私財法から応仁の乱まで』では、私有の土地と生産体制(=荘園)が誕生し成長し衰退していく姿を、気候変動も無視できない主要な要因としてとらえて説明しています。これは荘園に限ったことではなく、洋の東西を問わず、さまざまな歴史的事象の変化を描く中で、その変化の主要な要因のひとつとして気候変動に言及しないわけにはいかないことが理解できます。100年単位での話では、特にそう言わざるを得ません。

気候変動があったとしても、一定期間のうちにそれに対応して生命の保障や生活の安定を回復できるかどうかが政治や社会の体制に求められます。そうであるならば、100年単位で見る気候変動への対応力があるのが真っ当な体制と断言してもよいでしょう。気候変動は自然現象として起きることが避けられないとして、いかにその変動に対応していくのか、テクノロジーだけでなく社会のありかたや政治体制を含めて問われます。

 

(3)に続く

 

  作成・編集:QMS代表 井田修(202369日)