人的資本経営時代に給与を適切に調整するには(10)
9回に亘って人的資本経営を実現するに当たって給与について検討すべき事項について紹介してきました。最後に全体を振り返っておきましょう。
最初に、『動的な人材ポートフォリオ』と称すべき人材と一般の社員とは、処遇面では区分して扱うことの必要性やメリットを説明しました。前者はグローバルな人材マーケットを前提に処遇水準を考えるべきですから、報酬パッケージの内容やその水準もグローバルな競争力があることが求められます。後者は、基本的には日本国内で職務内容や人材要件などの面から給与(処遇)水準を調整しなければならないため、初任給や中途採用での採用時賃金などとの調整をテクニカルに行えばよいことになります。
次に、『知・経験のダイバーシティ&インクルージョン』の観点も『動的な人材ポートフォリオ』と同様に、全社一律で給与調整を考えるのではなく、人材のポートフォリオに応じて、それぞれのあるべき給与を実現することが肝要です。そのために、時には分社やM&Aなどの組織再編を含めた手段を用いて、あるべき給与の体系・水準を実現することが求められます。
『リスキル・学び直し』と給与との関連については、データサイエンティストを例にリスキリングが昇給(処遇の改善)に一対一で直結するものではないことを説明しました。そして、テクニカルスキルは次々と新しいものを身につけないと、仕事ができず、給与が得られなくなっても仕方がないものであることを示しました。変化と革新が激しい現代にあっては、学習し続ける力(メタラーニングスキル)こそが最も求められるスキルであって、それに対してダイレクトに報酬を支払うことはなくても、メタラーニングスキルを発揮して新たな仕事のチャンスが生まれ、次々と仕事の中身を変えて結果を出していくことが昇給の本筋であると述べました。
『従業員エンゲージメント』では、始めにハーツバーグのニ要因理論とマズローの欲求段階説を紹介し、給与(現金報酬)の限界と、より強い動機づけ要因となるものについて検討しました。そして、従業員エンゲージメントを高めるための施策についても、改めて検討する必要性を説きました。
『時間や場所にとらわれない働き方』では、時間的な制約と空間(場所)的な制約を脱却すると給与にはどのような影響が生じるのか、テクニカルな側面も含めて解説しました。時間的な制約から脱却すると、労働の結果を時間で測定することから労働の成果(プロセスと結果)で測定することが必要となります。空間(場所)的な制約を脱却するには、オフィスや工場などに縛っていた働き方を大きく変えて経営のスタイルから抜本的に変えていくことが求められます。
以上述べてきたことが実行できればよいのですが、もしできないならば、どうなるのでしょうか。言い換えると、旧来の給与のルールや仕組みに拘ってしまい、人的資本経営にそぐわない給与の制度や慣行が続いているとすると、どのような問題が発生するのでしょうか。
まず、キャピタルフライト(資本の逃避)が発生します。特にヒューマンキャピタルフライト(人的資本の逃避)が起こります。つまり、グローバルな人材マーケットにおいて求められる人材は、日本以外の地域や日本企業以外の企業に雇用されるようになります。また、海外から必要な人材を確保することができなくなります。
具体的には、例えば、リスクテイクと結果責任を負うことができる経営人材、デジタルスキルと経営に長けたDX人材、デザインやアートを企業経営に活かすことができる人材などは、どのような地域・企業でも求められます。そうした人材は、日本で日本企業に雇用されるよりも、他で雇用されれば、比較にならないほど高い(グローバルに見れば適切な)報酬を得ることができますから、仮に日本で居住しているとしても、海外の企業のために働くことになります。現実には、税金や子女の教育などの面から、海外に居住することになるでしょう。もちろん、敢えてグローバルな人材マーケットから見て見劣りのする日本で働こうという海外の人材はいないでしょう。
次の問題として、次世代の資本形成が進まなくなることが指摘できます。現有人材のリスキリングや活性化が進まないことやヒューマンキャピタルフライトも問題ですが、次の世代の人的資本が形成される機会が失われることも重大な問題です。現役世代が活躍し、その活躍に見合った給与(処遇)が実現する姿は、次の世代にとって格好のモデルとなるはずですが、そのモデルを提示できないのが現状ではないでしょうか。
人的資本経営という以上、給与や報奨も資本の要素を採り入れて大きな成果には大きな報酬を実現することで、次の人的資本の形成に寄与する仕組みが必要なはずです。特に株式連動型の報酬制度は、そこで得られた報酬を次への投資に活用することで次世代の資本形成に寄与することが十分に期待できます。
そして第三の問題は、仕事に向かう際のテーマ(仕事のまとまり)が設定できなくなることです。これは、イノベーションへのチャレンジや機会が失われることと同義です。個人の事情によって取り組むことができるテーマが違うのであれば、それはそれで仕方がないでしょう。しかし、組織としてテーマを個人に提示できるものが、合理化や改善のレベルで終始していたのでは、多少のリスキリングはあったとしても、大きな跳躍は望めません。次のテーマを設定するのも人的資本経営を進めていくには不可欠なのです。
こうした諸問題を回避するためにも、人的資本経営を軌道に載せることが求められます。それを現実のものとするには、給与の制度・慣行・実績を大きく見直さなければなりません。
作成・編集:人事戦略チーム(2023年1月9日)