人的資本経営時代に給与を適切に調整するには(2)
人的資本経営を実現する人材戦略の第一に、『動的な人材ポートフォリオ』があります。その重要性を理解し、実際に新たな人材ポートフォリオを実現すべく他社から人材を獲得したり、自社で思い切った人材登用に成功したとして、そうした人材に給与や賞与をいくら支払えばよいのかが、まず問題となります。
たとえば、上場企業では役員報酬が1億円を超えるのは、本年6月30日時点における個別開示ベースで635人となり、調査開始以来最も多い人数となっています(注3)。
もっとも、役員報酬が1億円ということは、1年間の報酬として現金1億円を貰うことを必ずしも意味しません。現実的には、現金で1億円ということはまずないでしょう。
ここで言う役員報酬には、役員報酬・役員賞与及び役員退職慰労金として受け取る現金以外にも、ストックオプションなどの株式連動型報酬が含まれます。役員報酬が1億円といっても、現金化されるのは一定期間後の株式連動型報酬の現在価値が算入されています。
『動的な人材ポートフォリオ』の対象となりうる人材は企業経営を担ったり、事業や利益の中核となるものを担ったり、新たな市場や製品・サービスを実現するチームを率いたりする人材です。その報酬水準は億円単位、少なくとも1千万円単位が議論のスタートラインと言えるでしょう。企業として上場しているか否かを問わず、上場企業の役員報酬の水準というのがひとつの目安となります。もちろん、ベンチャーにはベンチャーの魅力として、支払う現金は相対的に少額であったとしても、株式連動型報酬が大きく化ける可能性は処遇として無視できません。
この人材は、一般に一つの企業において存在するのが少人数で、取締役や執行役(執行役員)など委任契約か業務委託契約などで仕事をしてもらう対象です。言い換えれば、労働契約には馴染まない人材なのです。
従って、こうした人材とは個別に契約内容を定めればよいと割り切って考え、報酬の水準も形態も柔軟に取り扱うほうが良いでしょう。プロのスポーツ選手のチームへの専属契約や、アーティストやタレントなどのマネジメント契約が参考となるかもしれません。
ちなみに、スポーツ選手では、その選手に専属のコーチやトレーナーがフィジカル面でもメンタル面でもついていたり、栄養士やシェフ、医療スタッフなどがサポートしていたり、広報・通訳・法務・ITなどの専門スタッフ、マネージャーや庶務的なことを担当するアシスタントなどがひとつのチームとして動いていることもあります。
『動的な人材ポートフォリオ』の対象となる人材が、安定した結果を出し続けていくには、同様のチームが必要です。故に、個人に支払う報酬というよりも、チーム全体を賄うに足る活動資金と見做すべきものかもしれません。
そう考えるならば、『動的な人材ポートフォリオ』の対象となりうる人材と直接契約するのではなく、その人材を核とするチームがもつ法人格(株式会社や合同会社など会社と人材個人が出資比率を調整できるものが望ましい)と会社が業務委託などの契約関係をもち、報酬ではなく委託料として会社は事実上の人件費を支払うことになります。
この場合、仮に年間1億円の委託料が発生するとして、『動的な人材ポートフォリオ』の対象となりうる人材本人の所得は、その人材を核とするチームがもつ法人格から本人に支払われる役員報酬(または他の費目)となりますから、名目上は1億円プレイヤーではないことになります。とは言え、実質的にはチーム全体に1億円を支払うので、事実上の1億円プレイヤーです。
また、『動的な人材ポートフォリオ』の対象となりうる人材本人が希望すれば、住居を社宅化(人材本人を核とするチームがもつ法人格が契約した賃貸物件を本人に社宅として貸与)したり、技術系の人材であれば研究開発に必要な機材や設備を自分の意思で調達できるようにしたり、経営者や営業系の人材であれば移動手段やコミュニケーションのツールを自分の好みで選べるようにしたりすることが望まれます。とはいえ、地球環境への視線が厳しい時代では、冷暖房費が無駄に掛かる物件やプライベートジェットなどは、いくら本人が希望しても、周囲のスタッフが止めるべきでしょう。
一方、人材ポートフォリオとして認識するほどではない人材、いわば一般の社員については、どのような給与体系でどの程度の金額を支払うのが妥当なのか、課題とする企業も少なくありません。特に新卒の初任給が急激な上昇を見せつつある現状では、給与体系の変更と水準の見直しを同時に行う必要に迫られます。
ここで注意したいのは、『動的な人材ポートフォリオ』の対象となりうる人材とセットでこの課題を考えなければいけないという先入観に囚われないことです。『動的な人材ポートフォリオ』の対象となりうる人材はいわゆる労働者ではありませんから、両者は連続性をもつ存在というよりも、断絶し分離・独立した存在と考えるべきものです。
ダメなら即クビという世界を前提としなければ「動的な人材ポートフォリオ」など運用できるはずがありません。一般の社員がすべてその反対であれば、旧来の日本の給与体系や賃金慣行を大きく変える必要はないのですが、今でもそう言えるのは非正規雇用の人材だけでしょう。
有体に表現すれば、企業経営上、賃金水準が低い層ほど労働法の保護を全面的に受けることができなければなりません。一般の社員と言っても、いわゆる正社員ともなると、その中の相当程度の人材は『動的な人材ポートフォリオ』の対象となりうる人材の予備軍的な存在でしょうから、それに見合う処遇を実現しなければなりません。
つまり、処遇水準は非正規雇用者よりも明らかに高く、同時に雇用の安定性は非正規雇用者よりも低くなるはずです。ただし、これは全員一律に同じ賃金水準で雇用の安定性も同程度と言うことではありません。本当の意味でのジョブ型雇用(=Hire & Fireを不文律とする雇用慣行)を実現しなければならないということです。
現在の日本で、自社にとって今後はコア・ビジネスではないとか不採算事業で採算が改善する見通しが立たないといった事業戦略上の都合で、ジョブ(職務、ポストとほぼ同義)を削減する必要があるからと言って、その職務を担当している社員を会社都合で解雇するというのは、不可能ではありませんが、現実的には極めて実行が困難でしょう。
そこで、たとえば、問題となっている対象事業を別会社として切り出して、その別会社をMBOによって独立させたり関係のない第三者に売却または譲渡したりすることで、資本面や人事面でつながりがないようにした上で分離・独立させて、不要な人材(と事業)を動的ポートフォリオ化させるということになるでしょう。
そして、給与水準の調整もよりダイナミックに行う必要があります。仮に、新卒初任給が月に5万円上げる必要があるとすれば、その人材が担当すべき仕事を現に担当している人(いわゆる正社員であることが想定されます)の給与も、同じ水準に即時に引き上げることになります。現実には、レンジマトリクスによる給与管理といった手法や、賞与における個人業績反映部分を極大化して年収ベースで百万円単位の調整を行うといった方法などを採ることになるでしょう。
もし、既に在籍している正社員でありながら、新卒に任せるものと同程度の仕事もできない社員がいるとすれば、自社退職を促すか解雇するしかありません。少なくとも、いわゆるリスキリングのプログラムを習得してもらい、新卒に任せているもの以上の仕事ができるようになってもらうのが、真っ当な人事政策というものです。
【注3】
詳しくは、東京商工リサーチの以下の記事を参照してください。
人数が過去最多を64人更新、計635人 2022年3月期決算上場企業「役員報酬 1億円以上開示企業」調査[速報値] : 東京商工リサーチ (tsr-net.co.jp)
作成・編集:人事戦略チーム(2022年10月18日)