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「皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上・下)」にみる無から有を生み出すリーダーシップ(4)

「皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上・下)」にみる無から有を生み出すリーダーシップ(4

 

 どんな人も一人では何も成し遂げられないでしょう。政治においても軍事においても、経済や企業の活動においても同じです。その意味で、何かを実行しようとするリーダーシップとは、他者を巻き込んで他者に何かをやってもらうことと言い換えてもよいかもしれません。

 もともと直属の軍隊や家臣団などをもっていなかった皇帝フリードリッヒ二世にとって、自らが皇帝となり皇帝でありつづけるためには、さまざまな人々に自分の意思を理解して実際の行動に移してもらう必要がありました。そのためには法制度を整備して自分が直接判断しなくても物事がうまく動くように仕組みを作ったり、自ら有力者を説得して動いてもらったりしなければなりません。

 

まず、法整備という面では、「カプア憲章」を定めて、本拠地といってもよいシチリア王国の統治を制度化します。「カプア憲章」の骨子は、力の支配を禁じ法に基づく統治を行い、諸侯の領地の領有権を認めるが不法な手段によって領有した者は王に返還させ、武力も保有は認めるが勝手に行使することは禁じました。その上で、ナポリの典型的な封建領主であったエンリコ・デ・モッラをシチリア王国の司法長官と言ってもよいポストに就けることにより、有力な封建領主が他の封建領主をコントロールする体制を実現しました。

 一方で、シチリア王国以外の地域、すなわちドイツやイタリア半島の南北地域などでは、いきなり法制度を作ることはせずに、有力者たちを説得していくプロセスを踏みます。そこで「ディエタ」という会議体の一種を活用していきます。

 

フリードリッヒはこの町を、ドイツ中の封建諸侯を招いての「ディエタ」の開催地にしていたからだ。「ディエタ」とは後代の議会ではまったくなく、統治者が傘下の諸侯たちを招集し、この人々に自分が決めてほしいと考えていることを伝え、彼らの賛意を得る機会である。一二一六年の冬にニュールンベルグの「ディエタ」で決議されたのは、五歳のハイリッヒ(引用者注、最初の妻コンスタンツァとの間に生まれたフリードリッヒ二世の長男)を、ラテン語ならばズヴェヴィア、ドイツ語ならばシュワ―ベン地方の公爵にするということだった。(「皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上)」117ページ)

 

四月、五月と、シチリアから南イタリアに移動していたフリードリッヒは、そこでも各地で「ディエタ」を招集し、封建制から中央集権化への過程を着実に進む作業を再開していた。

と言っても、五年前のカプアの地で作成した憲章(引用者注、1220年に発布された「カプア憲章」のこと)をやみくもに押し通したのではない。法律とはいったんは定めても、改めた方が良いとなれば改定をくり返していくのが彼のやりかたで、「ディエタ」に招集された封建諸侯も、黙って拝聴するだけ、であったのではなかった。彼らにもさえも、現場からの要望としてならば発言することが認められていたのである。(「皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上)」208ページ)

 

フリードリッヒは、翌年の復活祭を期して北イタリアにあるクレモナで、「ディエタ」を開くことを公表した。(中略)この「ディエタ」、つまり会議の招集の理由は、翌年の夏に実施する予定の十字軍遠征に関する全般についての討議、となっている。要するにフリードリッヒは、自分が率いて行く十字軍に自領内のすべての人々を引き込むつもりでいたのだが、それを北イタリアのコムーネが、言葉どおりには受けとらなかったのだ。(中略)

「ディエタ」の開催日初日であったはずの四月十九日、フリードリッヒはクレモナにさえおらず、復活祭はラヴェンナで過ごしていた。クレモナでの会議招集の失敗は、三十一歳になっていた彼にとって、おそらくは初めて味わった苦い経験であったろう。(「皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上)」229230ページ、236ページ)

 

 ここに紹介されているように、「ディエタ」では現代でいう心理的安全性を 多少なりとも担保しながら話し合うことが可能であったのでしょう。そして、皇帝の政策とはいえども、見直す余地があったり、時には反発を招いて開催することさえできないこともあったようです。そこで無理強いすることなく、リーダーとして耐えるところは耐えて、機を見て動くのがフリードリッヒ二世のリーダーシップの特長です。

 人による支配ではなく法による支配を制度化したものが、後に整備される「メルフィ憲章」です。その特徴を一言でいえば、政教分離です。つまり、世俗のこと(領地の争い、経済活動、司法・行政など)は皇帝が責任をもって当たり、人々の心や精神の問題は宗教=ローマ法王庁が管轄する、という発想に基づいて、世俗のことは皇帝が次のように命じるという形式をもつ法令集が「メルフィ憲章」なのです。

 「メルフィ憲章」の起草には、皇帝自らが当たるとともに、ロフレド・エピファーニオに代表される世俗の若手法律家、大司教ベラルドなどの高位聖職者、エンリコ・デ・モッラに代表される封建領主から皇帝側近の高級官僚に転じたような人々、前回紹介したピエール・デッラ・ヴィーニャのような文章作成者(コミュニケーションの専門家)などと2回の合宿形式の集中作業を経て、延べ半年にも及ぶ時をかけて行われました。そして1231年に発布されました。

 その概略を以下に紹介します。

 

司法

1年任期で各地を異動する裁判官は、1年の任期中に判決を出すことを要する。検事と弁護士も含めて法曹三者の同業者組合を設立。

社会的弱者(貧しい人、未亡人、孤児など)が訴訟を起こす場合はその費用は国家が持つ。控訴権があり、控訴先は皇帝。

 

経済政策

国家(皇帝)には十二分の一税を直接納付する。このほかに十分の一税が教会税(ローマ法王庁)となる。他に臨時特別税を戦争などの非常時に賦課することがある。

市場(フィエラ)の公設、計量法や通貨(金貨)の整備なども行う。

 

統治機構

常設の「王室会議」を置き、皇帝(シチリア王)が議長となる。他に官房長官・内務長官・司法長官・財政経済長官・陸軍長官・海軍長官・建設長官、聖職者代表4名、諸侯代表2名から構成される。他に会計監査もいる。

地方統治機構としてパレルモ(シチリア島)とフォッジア(王宮)がある。

また、主要都市に「パルラメント」を設置し、皇帝と直接話し合う機会がある。封建諸侯、聖職者、一般市民のそれぞれの代表が3分の1ずつを占める。

 

 「メルフィ憲章」を現実に機能させるには、「メルフィ憲章」の趣旨や内容を理解し、皇帝の意を汲んで、物事、特にトラブルや紛争を迅速かつ的確に処理できる一種の官僚の存在が必要となります。そうした人材は、単なる封建諸侯ではダメで、また聖職者は世俗に戻るわけにはいかないでしょうから、専門の法学教育を受けた行政官的な人材が必要となるのです。

 もちろん、そうした人材が世の中に数多くいたわけではありません。不足しているからこそ、人材育成機関を皇帝が自ら設置して、「メルフィ憲章」を実践する人材を育成することにもなります。そのための機関が大学なのです。

 では、皇帝が設置したナポリ大学について、もともとあったボローニャ大学やほぼ同時期に開設されたパドヴァ大学と比較してみましょう。

 

ボローニャ大学

1088年設立。学びたい人たちが集まって学生組合を結成し、教授を招聘(学生が学費を支払う)。ローマ法王庁が後援。神学と教会法を中心に。教授は大半が聖職者。卒業後は聖職者へ。

 

パドヴァ大学

1222年設立。ボローニャ大学の教育内容に不満を持つ学生と教授たちがパドヴァに新設。後にヴェネツィア共和国が後援。神学・教会法だけでなく自然科学も対象に。ガリレオ・ガリレイが教授であったことも。

 

ナポリ大学

1224年設立。フリードリッヒ二世が提供する資金で設立・運営(現代風に言えば神聖ローマ帝国の国立大学)。学生の授業料は無料、教授への報酬は国庫から支給。学長は皇帝が任命。学生組合はあったが、大学の運営機関ではなく、学生生活の支援機関。神学・教会法だけでなく哲学・論理学・修辞学などリベラルアーツに加えて法学(ローマ法)も。教授は世俗の人々(聖職者はほとんどいない)。初代学長は法学者のロフレド・エピファーニオ(「カプア憲章」起草、『教会法と市民法に関する考察』著者)。奨学金制度や生活費の低利融資制度(学生ローン)を創設。医学部(サレルノ医学校)及び付属病院を強化。

 

このように、ないもの(体系的な法令)は新たに作り、足りないものはその不足を埋めるべく供給機関(大学)を設けることで、次第に統治の仕組みやそれを担う人材を確保できるようになっていきます。

シチリア王に幼くして即位し、神聖ローマ帝国皇帝に18歳で選出されただけに、それだけの時間があったという点も無視できませんが、その時間を効果的に活用して、世の中を現実的に統治していったことも事実です。

現代のビジネスにおいては、起業など新しいことにチャレンジするには遅いかと本人が思っても、平均寿命の長さを考えれば、5年先10年先を見通せば、やり始めるのに遅いことは滅多にないでしょう。

何をするにしても、やりかたのルールを定めたり、いっしょにやる人々を集めたり教えたりすることでリーダーシップを発揮することができます。自分がすべてをやる必要がないどころか、多くの人々が活躍できる場を設定することができれば、そのほうが広く世の中に影響を及ぼすことにつながるのです。

皇帝といえども、「ディエタ」や「パルラメント」を主宰して有力者を説得して賛意を得たり、自ら議長となって王室会議(現代の閣議に相当)を日常的に開いて国政を進めていく姿は、現代のCEOと何ら変わることのない姿です。皇帝もCEOも、日常的にはこうした会議やミーティングを巧みに進めることが、まさにリーダーシップを発揮することに他なりません。

 

(5)に続く

 

作成・編集:QMS 代表 井田修(202288日更新)