ファクトフルネス (7)

 

ファクトフルネス ~ 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣~(7

 

(7)先入観やラベリングは有効であるがゆえに暴走しがち

 

性別、人種、宗教、地域(出身地、在住地など)、学歴、趣味・嗜好、職種、所属部署、役職などなど、人は何らかの徴でもってその人やその人が属する集団を「こういうものだ」と決めてかかるところがあります。それがまた、ぴったりと当て嵌まる事象に出くわすことも多いように思われます。 

男なら〇〇しろ、女のくせに××するなんて、というのが性別によるパターン化の例です。人種や宗教によって人を差別する事例は、ここで敢えて挙げる必要もないでしょう。 

地域は、〇〇県人とか関西人といった区分で人に固定的なイメージをつけるものです。同じ東京でも、下町と山の手といった区分で違いを際立たせようとするものもあります。 

学歴は、日本の場合、出身校名の違いとか理系・文系・運動系・芸術系といった区分がよく出てきます。趣味・嗜好の代表例は、プロ野球ファンとはあまり言わずに、阪神ファンとか巨人ファンといった贔屓のチームによるファンの気質や外見・行動のイメージについてのステレオタイプでしょう。 

同じ会社のなかでも、営業は〇〇、技術は××、管理は△△、といった違いもあります。実際、見た目の第一印象で職種がわかるほど、職種間の異動がなく、あるパターンの人材を継続的に採用し続けている会社もあります。また、課長らしさや部長らしさを強調する組織もあります。「営業は足で稼ぐ」という表現も、職種による思い込みの一例でしょう。 

これらが、本書で第6の思い込み(本能)とされるパターン化本能です。 

パターン化本能の怖いところは、実例がひとつかふたつであっても、その言説が対象の集団に属するすべての人に当て嵌まっているかのように、反論を許さないテーゼとして機能するところです。言い換えれば、仮に若干の実例があったにせよ、単なるラベリングで人の言動や物事を決めつけ、その先の分析や考察を拒否してしまい、当該グループを一つの色で見てしまうことに気がつかないのです。

 

人間はいつも、何も考えずに物事をパターン化し、それをすべてに当てはめてしまうものだ。しかも無意識にやってしまう。偏見があるかどうかや、意識が高いかどうかは関係ない。(中略) 

生活に役に立つはずのパターン化もまた、わたしたちの世界の見方を歪めてしまうことがある。実際にはまったく異なる物や、人や、国を、間違ってひとつのグループに入れてしまうのだ。そして、同じグループの物や人はすべて似通っていると思い込んでしまう。しかも、なによりも残念なことに、ほんの少数の例や、ひとつだけの例外的な事柄に基づいてグループ全体の特徴を勝手に決め込んでしまう。(「ファクトフルネス ~ 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣 ~」190ページより)

  

 いま正に問題となっているBLM(Black Lives Matter)運動を引き起こした黒人(アフリカ系アメリカ人)への扱いも、ここに引用したとおりのパターン化本能によるものと考えられます。さらに状況を悪化させるのは、パターン化本能の結果(それを“偏見”と呼ぶことも可能)を助長し強化する方向に誘導する言動をとることで、自己の利益を追求しようとする人間が少なくないことです。既存のパターンが強固であるほど、それによって生じる既得権益もまた多大なものです。 

 だからこそ、パターン化本能に陥らないように、絶えず注意することが求められます。特定のグループについてパターン化本能に従って人々を分断に導くような言動(中世以降のヨーロッパにおけるユダヤ人への対応、明治以降の日本における朝鮮・韓国系やアイヌ民族の人々に対する扱い、現代アメリカ社会における黒人の処遇、イスラム教徒をテロリストと同一視すること、いつの時代のどのような国家においても見られる移民に対する態度など)は、立ち止まってそのパターン化が真にデータに裏付けられたものであるかどうか、検証してみることが必要です。 

  

ファクトフルネスとは……ひとつの集団のパターンを根拠に物事が説明されているとしたら、それに気づくこと。パターン化は間違いを生み出しやすいことを肝に銘じること。パターン化を止めることはできないし、止めようとすべきでもない。間違ったパターン化をしないように努めよう。(「ファクトフルネス ~ 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣 ~」213ページより)

  

パターン化本能そのものは、時には効率的に他人を判断する力にもなるため、すべてが悪いものとして拒絶するわけにはいきません。対処すべきは、その限界を知って暴走を抑えることです。そのためには、次のような観点から集団に関する分類そのものを疑ってみることを本書は勧めています。

 

●同じ集団の中にある違いを探そう 

●違う集団のあいだの共通項を探そう 

●違う集団のあいだの違いも探そう 

●「過半数」に気をつけよう 

●強烈なイメージに注意しよう 

●自分以外はアホだと決めつけないようにしよう 

(「ファクトフルネス ~ 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣 ~」213214ページより)

  

まず、集団の規模が大きいほど、大雑把な分類であり、その言説に該当しない人々が数多く存在するのが普通です。同じ集団とはいえ、その集団の特性と思われるものに該当しない人々もいれば、違う集団にその集団の特性と思われるものが見つかることも往々にしてあります。そうであるならば、その集団を特性づけると判断された特性は、実はより広い社会で普遍的に見られるものかもしれません。 

宗教にせよ、人種にせよ、政治体制にせよ、文化的歴史的背景にせよ、さまざまな要因が生活様式を決定づけるように思われますが、最も大きな影響力をもつ要因は所得水準です。そのことを本書では“ドル・ストリート”という生活実態の写真集で明らかにしています。このように現場の実態を客観的に見るということは、パターン化本能に依存しがちな見方や先入観を見直す契機となります。 

また、“過半数”のように、ざっくりとした区分にも注意が必要です。過半数というのは5149でも正しい表現ですし、991でも間違ってはいません。しかし、5149991では、僅差と圧倒的という表現以上の差がついていると見るのが普通でしょう。同じ過半数であっても、容易に逆転しうるものもあれば、そうそう変動しそうもないものもあるのです。 

仮に、テロリストの過半数がイスラム教徒であったとしても、残りはキリスト教徒かもしれませんし、仏教徒かもしれませんし、無神論者かもしれません。しかし、形成されるイメージはテロリストの大多数、下手をすれば全員がイスラム教徒とラベリングしがちです。実際は、過半数が10人で、残りの9人がキリスト教徒であったならば、テロリスト=イスラム教徒、という定式化が間違っていると言えます。 

テロや中毒などが起きれば、人々に強烈な印象を残します。自然災害や航空機の墜落事故などもそうでしょう。しかし、だからといって、その当事者が属する集団すべてに問題があり、危険視されるべき存在であるとは限りません。むしろ、そうでないことのほうが多いでしょう。 

ある事件を起こしたテロリストがイスラム教徒だからと言って、イスラム教徒全員がテロリストであるはずもありません。そもそもテロを容認し扇動する宗教があるということを仄聞にして耳にしたことがありません。これまでの実例を顧みれば、テロリストにはキリスト教徒もいれば仏教徒もいました。 

ある食品で食中毒が起きたからと言って、その食品を全面的に食用禁止にしていたら、フグはおろか、牡蠣も卵も肉類も野菜類も禁止すべきでしょう。カレーやシチューも提供禁止となってしまいます。現実には、食中毒の原因を科学的に特定し、食中毒を起こさないような方法で食材の保存・管理・調理及び出来上がった料理の保存などを適切に行うことで、より豊かな(多様性のある)食生活を送ることができます。 

パターン化本能の暴走から逃れるには、最終的には、自分自身への懐疑を保つことが不可欠なのかもしれません。自分に自信をもつことは何をするにしても必要でしょう。ただし、自信が過信へと増長しないように、自信をもつと同時に自分の能力や実績などへの懐疑を絶えず持つことを忘れてはなりません。 

しかし、これは実際のところ、自分一人で行うには最も難しいことでしょう。身近なところに諫めてくれる人がいれば幸運というべきでしょうし、そういう人の存在を疎ましく思うのが人間ですから、反対に嫌いな人や苦手な人の意見を年に1回は聞く機会を意図的に作るくらいしか、パターン化本能の暴走を抑止する方策はないかもしれません。

 

(8)に続く 

 

文章作成:QMS代表 井田修(2020626日更新)