· 

21 Lessons ~21世紀の人類のための21の思考~(3)

 

21 Lessons ~21世紀の人類のための21の思考~(3

  

(3)雇用の何が問題か?

 

 歴史学者としてユバル・ノア・ハラリは、歴史(過去)とテクノロジー(未来)についての考察を行ってきました。その彼が「今、ここ」(現在)の課題にはどのように取り組んでいったらよいのか、考察を深める上で最初に雇用の問題を採り上げています。それは、最も身近な課題だからです。

 

一九世紀には産業革命が、既存の社会モデルや経済モデルや政治モデルのどれ一つとして対処できないような、新しい状況と問題を生み出した。封建制や君主制や伝統的な宗教は、大工業都市や、住み慣れた土地を追われた男百万もの労働者や、絶えず変化する近代経済を管理するようには適応していなかった。その結果、人類は完全に新しいモデル(自由民主主義国家や共産主義独裁政権やファシスト体制)を開発しなければならず、それらのモデルを実験し、役に立つものと立たないものを選別し、最善の解決策を実行に移すのには、一世紀以上に及ぶ恐ろしい戦争と革命を必要とした。(中略) 

二一世紀にITとバイオテクノロジーが人類に突きつけてくる課題は、前の時代に蒸気機関や鉄道や電気が突きつけてきた課題より、おそらくはるかに大きい。そして、私たちの文明の持つ途方もない破壊力を考えると、欠陥のあるモデルや世界大戦や血なまぐさい革命を容認する余裕はとうていない。(中略) 

解決策の候補は、三つの主要なカテゴリーに分類できる。仕事がなくなるのを防ぐために何をするべきなのか? 十分な数の新しい仕事を創出するのに何をするべきか? 最善の努力をしたにもかかわらず、なくなる仕事のほうが創出される仕事よりもずっと多くなったら、何をなすべきか?(「21 Lessons5658ページより)

  

現代の変化は、改めて述べるまでもなく、極めて大きく急激なものです。1世代、2世代前では、個人ベースでは転職や階級の移動はあっても、職業そのものや階級といった社会的な役割そのもののカテゴリーには、そう大きな変化はおきなかったでしょう。〇〇革命や××維新といった歴史用語で語られるような大きな変化が起きた時期があったとしても、農民は農民でしょうし、農作業のやりかたや作業分担はそうそう変わらなかったでしょう。 

ユバル・ノア・ハラリによれば、現在起きていることは、身分制度が変わるとか、職業分類が一新されるといったものではなく、仕事そのものがなくなるという変化です。 

そこで、まず初めに「仕事がなくなるのを防ぐために何をするべきなのか?」という問いが発せられます。 

現在起こっている変化は不可避であるとすれば、無理に従来の業務システムを温存して雇用を維持しようとすれば生産性の相対的な低下につながり、競争力が失われるだけであることは自明です。生産性の向上=数多くの人間が担ってきた作業をすべて止めること、であるならば、仕事がなくなるのを防ぐことは原理的に不可能です。 

しかし、現在ある作業が仕事のすべてではありません。ITやバイオテクノロジーの発展も、まだまだその途上にあります。それらを発展させる仕事というものもあるはずです。ただし、そうした仕事が、仕事を求める人間の数だけあるのかというと、それは別の問題です。つまり、「十分な数の新しい仕事を創出するのに何をするべきか?」と問われます。 

仕事を創出するのは、誰の仕事でしょうか。政府でしょうか、大企業でしょうか、それともITやバイオテクノロジーで成功したグローバル企業でしょうか。 

一般には、仕事=雇用の創出と捉えれば、それは主に企業が果たすべき機能です。もちろん、政府や国際機関などの公的機関も雇用を生み出しはしますが、その原資は雇われた個人及び雇っている法人の納めた税金にほかなりません。 

したがって、究極には、仕事は人を雇う法人(個人事業主を含む)が創出するものです。古典的な共産主義体制下の計画経済でない限り、創出される仕事の数と仕事を求める人の数が一致することはあり得ません。 

さらに言えば、数の議論だけでよいはずもありません。仕事が創出されても、誰でもその仕事に就いて求める成果を生み出すことができるだけの能力や資質があるとは限りません。現実の労働市場を見れば、仕事と個人とのミスマッチはあるのが当たり前です。 

また、雇用(有償労働)ではなくボランティア(無償労働)というものもあります。創出される仕事がボランティアを求めるものばかりであるとすれば、仕事が創出されたとは言えないのではないでしょうか。 

ここで問題となるのは、雇用というよりも賃金(生活費)の保障をどうするのかという問題です。仮に生活を保障する手段が全国民への一律の現金給付(最低所得保障、ベーシックインカム)であるとすれば、雇用の数は問題とならなくなります。もちろん、ベーシックインカム以外の手段、たとえば生活を保障しうるサービスを全国民に提供することを実現しているのであれば、同様の効用がありますから、雇用の数は問題とはいえないでしょう。 

したがって、「最善の努力をしたにもかかわらず、なくなる仕事のほうが創出される仕事よりもずっと多くなったら、何をなすべきか?」とう問いは、生活を保障する最善の努力はしたけれども、生活を保障することは雇用以外の手段では難しいという現実が、そうそうなくならない以上、どうしても雇用の数の問題は不可避であると読み替えることができます。 

雇用の数の問題は、同時に雇用の種類や質の問題でもあります。ITやバイオテクノロジーがいかに発展しても、というよりも、テクノロジーが発展すればするほど、テクノロジーが求める種類の仕事に就くことができるのは、より新たな教育を受ける機会があった人に限られます。多くの人々は、新たなテクノロジーを学び身につけることは、不可能ではないにしても、容易なことではありませんし、時間とコストと労力を要することです。そこには、必ず失業の問題があります。 

では、そもそも仕事とは何でしょうか。 

注意したいのは、雇用がなくなるとか減少するといっても、なくなるのは作業であって仕事ではないのではないでしょうか。仕事は付加価値を生み出すものであるとすれば、付加価値を生み出すことができないところに問題があります。 

これといって付加価値を生み出すことがないものであっても、作業としての雇用となることはあります。現に周囲を見渡せば、この作業に何の意味があるのか不明なものが相当あります。新型コロナウイルス(COVID-19)のパンデミックに迫られて在宅勤務やテレワークを行うことで、いかにこれまでの仕事のやり方に付加価値のない作業が多かったのか、改めて気づかされたことが多い方もいるでしょう。 

著者が説くように付加価値の源泉がデータの大きさ(ビッグデータの規模)で決まるのであれば、ごく一握りのビッグデータを集約した者がすべてを手にするはずです。 

しかし、データでとらえきれないところに仕事の価値があるのではないでしょうか。 

たとえば、体調がすぐれず、自分が何らかの病気になったと自覚した人がいるとします。体温や脈拍、呼吸数などのデータを収集し、ときには血液検査キットを用いて詳細な検査データを分析するといったことまで、病院に行かずとも可能となる日はそう遠くはないでしょう。だからといって、医療に従事する人の大半が不要になるとは到底、思えません。 

物理的に病気を治療することは、個々の遺伝子や生活習慣を把握しておけば、オーダーメイド治療が可能となるかもしれませんが、その治療方法を説明して納得してもらうことや、治療後のアフターケア(リハビリや社会復帰のためのメンタルケアなど)など、AIやロボットが行う場面が多いであろうと想像できても、本人や家族を安心させるには専門家と呼ばれる人間にいてほしいのではないでしょうか。最後は誰でも亡くなるわけですが、その死の判定を補助する機械やITは必要であっても、判断を下すのは人間であってほしいものです。 

仕事には本来、ジョブ=職(勤め口)という生活の糧を得る手段という面と社会的分業の一端を担う面があります。後者は、社会(コミュニティ)とのつながりをもつための手段と言い換えてもかまいません。 

雇用がなくなる=生活の糧を得る手段の喪失であるとすると、雇用対策とか生活保障の問題に過ぎなくなります。それはそれで大きな問題ではありますし、対応を誤れば、重大な社会不安を引き起こすことにつながる問題ですから、重大な課題であることは間違いありません。 

同時に、雇用がなくなる=社会とのつながりの喪失でもあります。こちらは、仕事を通じて形成される人間のつながりが失われること、すなわち、社会やコミュニティの崩壊や、それらからの疎外につながる問題でもあります。次回はこの点について考えてみたいと思います。

 

(4)に続く 

  

文章作成:QMS代表 井田修(202046日更新)