「超越の棋士 羽生善治との対話」に見るリーダーシップ(6)

「超越の棋士 羽生善治との対話」に見るリーダーシップ(6

 

「そういう未知の局面にきちんと適応できるか、対応できるかということは、もちろんわからないわけですし……(中略)そうなった将棋(注1)を途中からプロの棋士が任されて、正しい手を瞬時に選ぶのは、かなり難しいと思います。」(「超越の棋士 羽生善治との対話」高川武将著・講談社刊228229ページより、以下の引用はすべて同書より)

 

 これは、羽生氏が4年前、4冠だった当時、コンピューターがプロ棋士に勝ち始めたり、コンピューターが指した手をプロが公式戦に採り入れたりするようになってきた頃、高川氏とのインタビューで語った言葉です。

 羽生氏によれば、プロ棋士というのは、できるだけ未知の局面にならないようにもっていくものであるそうです。そのため、いまでも、研究、特に序盤の研究で相手にとって未知の局面に誘導することができれば、既に作戦勝ちということができ、最終的に勝ちにつながることも多いようです。プロ同士の対局では、対局相手の研究にいかに乗らないか、相手の研究をいかに外すかが、序盤の戦いのポイントなのかもしれません。

ただ、そうした意味での研究だけで勝てるほど、プロの対局は甘くはありません。実際には研究通りいくことはプロ同士ではそうそうないでしょう。そこで真の実力が問われる、未知の局面への対応というテーマが出現します。

 

「間違えられたら困るんですけど、島研では、序盤の研究はほとんどしていなかったんです。終盤のゴチャゴチャした局面しかやらなかった。彼らは、二度と出てこないことをやるのが好きなので。(中略)今の研究会とまったく違います。終盤の“ベタ読み”の部分に相当な時間をかけていました。次の勝負に役立つかどうかわからないけど、複雑怪奇な局面を何時間もかけて解いていく訓練、本当に基礎体力をつけるための練習をやっていたんです。」(同書262263ページより)

 

 こう語るのは、島研を主宰した島朗9段(初代竜王)です。

 将棋において、中盤から終盤、さらに最終盤の詰むか詰まざるかという局面ほど、未知のものはないでしょう。こういうところはビジネスに似ていなくもないかもしれません。商品開発にしろ顧客開拓にしろ、基本的な手順や手法は確立しているとしても、現実に仕事を進めていくと、未知の課題やどうしてよいかわからない泥沼の状況に直面するものです。

 そこで、未知の局面にどう対応するか、が問われることになります。プロといっても、既成概念に囚われているだけでは先に進めません。プロこそ、日々、仕事のアプリケーションをバージョンアップすることが必要なのでしょう。その基礎となるものを若い時に築くことができるのか、いわば学習方法の習得とでもいうべきものを、どこまで自分の力として身につけることができているのかが問われます。そして、それをストイックに継続できるのか、できた者だけが一流になることができるのではないでしょうか。

 しかし、一流のプロになるにはそれだけではダメかもしれません。

 

「羽生さんの凄いところは、佐藤さん(注2)、森内さん(注3)もそうですけど、謙虚なだけでなく、言葉の重みを知っている点だと思います。(中略)プロは皆、凄腕ですから、不用意な言葉を口にして恨まれたり、『こいつには絶対に負けられん』と思われたりしたら、最後まで頑張られてしまってなかなか勝てません。羽生さんは若い頃から、そんな言葉の怖さを十分に知り尽くしていたと思います。(中略)短期的に勝つことにほとんど意味を見出さず、長く勝ち続けるためにどうするかということを、打算ではなく、自然と身に着けていったのではないでしょうか」(同書245ページより)

 

9段はこのように続けて語っています。

リーダーが言葉の重みを知らないと話にならないのは、改めていうまでもないことですが、言葉の重要性というのは、プレゼンがうまいとか会議の仕切りが巧みということではありません。むしろ、日常の言葉遣いで、どれだけ敵を作らないか、ファンや味方を作り出せているか、という点が大事です。

将棋というゲームの特徴のひとつに、“感想戦”という慣行があります。これは、対局終了直後に、対局者同士が終了したばかりの対局について、読み筋や指さなかったが指し手の候補となる手などを互いに述べ合って、どの局面でどのような分岐があり、それぞれにその後の展開や互いの勝ちやすさ(局面の優劣)などを確認することになります。プロの公式戦では、対局者のほかに記録係を務める奨励会員や観戦記を書く記者や解説担当の別の棋士なども参加することもようです。

こうした場面で、羽生氏は奨励会時代もプロになった直後も、ほとんどの場合、最も年齢が若い対局者であったことでしょう。たとえば、大山康晴15世名人と最初に対局したとき(19885月)は65歳と18歳なので、祖父と孫くらいの年齢差がありました。最近あったこれと同様のケースは、加藤一二三9段と藤井聡太4段(当時・現7段)の対局でしょう(注4)。

現代の企業でたとえていえば、長年経営者として会社を背負ってきた名誉会長とアルバイトから正社員に登用されたばかりの若手社員が、対等の立場でいっしょに仕事をするようなものでしょうか。ビジネスにおいていかにダイバーシティが叫ばれても、なかなかこうした機会にお目にかかることはないでしょう。

こうした状況で、いかに敵を作らず、味方とは言わないまでも「この若手は、なかなか見所があるな」とか「これだけ手が見えているのでは(自分が)負けてもしかたがない」と思わせるようなコミュニケーション術が必要です。それを自然に身に着けていたというのは驚きです。

こうした年上の先輩とのコミュニケーションは、誰でも苦労しそうなものですが、子供の頃(奨励会入会が12歳の時)から周囲は先輩ばかりという環境で対局してきた羽生氏や佐藤9段・森内9段などは、いわばコミュニケーションの修業を実践の場で積んできたようなものだったのかもしれません。

ビジネスの現場においても、こうした実践的な場があればいいのですが、もしそういった機会に巡り合うことがないのであれば、自らそういうシーンに飛び込むしかありません。たとえば、海外に一定の年数、営業に出るとか、大手企業に勤めているなら中小企業やスタートアップのベンチャーに手を挙げて出向してみるとか、若いうちに一度は数年間の実践的なチャレンジをすべきでしょう。

仮にそうしたチャレンジがうまくいったとしても、ずっと安定した成長が約束されているわけではありません。

 

「タイトルがいつまでもあるかどうかわからないというのは、若いときも同じといえば同じなんですけど、20代だったら(負けても)『まだ先がある』とか『まだ可能性がある』という風に、自然に思えるところはあったわけです。でも、さすがに40代になると、そういうことだけではなくて、タイトル戦だったら『この期に出るのが最後になるかもしれない』ということも、当然考えられる。だから、目の前の一回を大切にしたいという気持ちは凄くあります。」(同書245ページより)

 

本日の時点で言えることは、今月20日(明後日)から2日間で予定されている竜王戦第7局は、まさに今年最も注目すべき1局と呼ぶにふさわしい対局となることです。この対局に羽生氏が勝利すれば、今期の竜王位を防衛することになりタイトル獲得通算100期となります。これは第2位の大山15世名人の80期を大きく上回る前人未到の記録です。もちろん、現時点での99期獲得というのも同様の偉大な記録ですが。

もし、第7局で挑戦者の広瀬章人8段が勝てば、1991年に棋王獲得以来継続しているタイトル保持の状態から羽生氏は失冠して「羽生9段」と称されるようになります(注5)。将棋ファンや棋界関係者などの周囲の人々は、こうしたことを囃したてますが、羽生氏も広瀬8段も当事者はきっと目の前のひとつの対局に集中していることでしょう。そうでなければ、先週の第6局の後で両者ともに大きな勝負を制することはできなかったかもしれません(注6)。

リーダーになることも容易ではありませんが、リーダーであり続けることはさらに難しいことでしょう。それが自らの実力だけの世界となれば、想像しがたいものがあります。それを長年に亘って持続していることは、凡人には思い至ることが不可能な世界でしょう。

幸いなことにビジネスは一人でやるものではありません。会社や組織の実力をひとりのリーダーの実力と本人も周囲の人々も混同することさえなければ、もしかすると個人の力だけで勝負する世界よりは、真っ当なリーダーであり続ける可能性は高いのかもしれません。ただし、言葉の力を活用しているということと「これが最後となる」という覚悟を若い時からもってい続けるという条件を満たす必要はありそうです。

 

【注1

プロの常識や定跡化された手順・局面などを知らないために、将棋を覚えたばかりの人がプロの目から見てメチャクチャなことをやり、そこにミスも重なってさらにメチャクチャな局面になること、と羽生氏が指摘するような局面になってしまった将棋のことを指しています。

 

【注2

佐藤康光9段(現・日本将棋連盟会長、永世棋聖有資格者)のこと。島研創設時からの研究会メンバーの一人。

 

【注3

森内俊之9段(現・日本将棋連盟専務理事、18世名人有資格者)のこと。島研創設時からの研究会メンバーの一人。

 

【注4

この対局については、以前、コラムでも採り上げました。以下の記事を参照してください。

https://www.qms-imo.com/2016/12/26/62%E6%AD%B3%E5%B7%AE%E3%81%A7%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%82%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E4%BB%95%E4%BA%8B/

 

【注5

羽生氏が公式に「段」で呼称されるのは、1989年に竜王戦で挑戦者として島朗竜王とのタイトル戦を戦っていた時の「羽生6段」以来、29年ぶりとなります。これは、1990年当時、「前竜王」というタイトル保持者だったことを示す称号を、タイトルを失った後でも1年間は名乗ることになっていたため、現在では「羽生7段」となる時期でも「前竜王」と称していたことによるものです。

 

【注6

羽生・広瀬両者ともに、昨日の重要な対局に勝っています。その結果、広瀬8段は棋王戦の挑戦者となり、来年2月に渡辺明棋王とのタイトル戦を戦うことが決定しました。羽生竜王は佐藤9段とのA級順位戦第6局を深夜1時近くに制し、6戦全勝の豊島2冠に次ぐ51敗で名人戦の挑戦者を狙うポジションをキープしています。

 

【注7

記事中の対局日などの事実関係については、玲瓏(サイト運営主“たいがー”よる棋士羽生善治の個人記録のデータベース)及び日本将棋連盟HPの棋士データベースによります。

 

(7)に続く 

作成・編集:QMS 代表 井田修(20181218日更新)