「1918年の最強ドイツ軍なぜ敗れたのか」に見るリーダーシップと戦略(5)

 

1918年の最強ドイツ軍なぜ敗れたのか」に見るリーダーシップと戦略(5

 

 結局、モルトケは開戦当初の失敗(注2)および健康状態の悪化(1916年に死去)から参謀総長の辞任に追い込まれます。

 その後、参謀総長のポストには陸軍大臣だったファルケンハインが就くことになります。しかし彼は、もともと陸軍内部でのパワーも弱く、宰相ベートマンとの対立やカイザーからの信頼喪失なども加わり、2年ほどで罷免されることになります。

戦争中であるにも関わらず、ドイツ帝国という組織のトップマネジメントを構成するトライアングルの一角、それも最も軍事に関わる必要がある参謀総長のポストが頻繁に交替せざるを得ないというのでは、戦争というミッションを実行する能力に重大な疑問符が付きます。

 モルトケやファルケンハインを参謀総長に選んできた反省がカイザーおよび宰相を含むカイザーの側近たちにあればよいのですが、実際にはそうした反省は確認できないようです。詰まる所、陸軍内部の権力闘争と戦争遂行がうまく進まない状況から国民の目をそらせる必要性から、東部戦線で挙げた戦果(注3)で高い人気を誇っていたヒンデンブルクを参謀総長のポストに就けます。同時に、ルーデンドルフが第一兵站総監(参謀次長を改称)に就任します。

 

 ヒンデンブルクは、貴族の軍人を父に当時はプロイセン王国の一部であったポーランド西部のポーゼンで生まれた。普墺戦争、普仏戦争に従軍し、参謀総長就任時には68歳だった。軍人としては、以前に参謀総長の椅子を逃し、またプロイセン陸軍大臣となる機会も逸して大戦勃発時に引退していた。(中略)開戦後、東部戦線の第8軍司令官として復帰し、数多くの戦功をあげた。背が高く、堂々とした押し出しの人物で、短く刈り込んだ毛がブラシのように立っている独特の髪型、突き出た眉、大きな口髭を蓄えた印象的な容貌とも相まって、落ち着いた確固とした人物という印象を与えていた。(同書100ページ)

 

 ルーデンドルフは、1865年ヒンデンブルクが生まれたポーゼン近郊の東ポーゼンで中産階級の商人の家に生まれた。1882年に将校としての軍歴を歩み始め、参謀本部にも入った。野戦軍や参謀本部を行き来し、大戦勃発後、ベルギーのリエージュ要塞攻略に貢献。次いで、ヒンデンブルクの下で第八軍参謀長を務めた。第一兵站総監に就任した時には51歳。がっしりとした体格で、髪を短く刈り込み、時には片メガネをかけていた。(中略)彼のパーソナリティや能力に関する歴史家の評価は、総じて厳しい。(同書100101ページ)

 

 ここで注目される点が二つあります。

ひとつは、ドイツ帝国のトップマネジメントはトライアングルで機能していたはずですが、そこに第四のパワーが台頭してきたことです。つまり、陸軍(軍部)を代表する参謀総長に加えて、参謀次長までもがトップマネジメントの一角を占めるに至りました。人数的に軍事が政治に優越するのではないかと思われます。

 これは、ヒンデンブルクとルーデンドルフの国民的な人気に、カイザーや宰相といった政治家が依存せざるを得ない戦況であったことが大きいという事情もある一方、陸軍内部での権力争いに勝った当事者であるヒンデンブルクとルーデンドルフがそのままドイツ帝国のトップマネジメントに加わってしまったとも言えます。

 企業でいえば、ある地域で目立った実績を挙げた支店長が部下の営業課長を引き連れたまま、取締役副社長営業本部長になり、部下は課長から取締役営業本部副本部長になったようなものかもしれません。こう言えば、ルーデンドルフがそもそも全体のリーダーとして求められるであろうスキルや識見を身に着けていたかどうか、大いに疑問をもつのが当然です。実際、「ルーデンドルフ独裁」という歴史用語が生まれる情況にドイツ帝国は陥ります。

もうひとつ注目すべき点は、ヒンデンブルクという既に引退していた人物を現役に復帰させた上に昇進させるという、極めて例外的な抜擢人事を行っていることです。現代でも時には見られる人事ですが、一度、エリートコースから外れた人材や退職した人材を本社に呼び戻して、トップマネジメントの一員にまで引き上げるというのは、よほどの事態でしょう。

こうした引き戻し・抜擢昇進という人事がすべて悪いわけではありませんし、経営者として復帰して立派な業績を挙げた人材も少なくありません。ただし、なぜ、そうした人事を行うのか、周囲を納得させるだけの理由がない限り、こうした人事はうまく機能しないでしょう。また、そうした人事を行ってどのような結果をすぐにでも期待しているのか、引き戻し昇進させる人自身にも相応の覚悟と見通しが求められます。

この点については、ドイツ帝国、特に皇帝や宰相にとって、国民に戦争指導者としての人気の高さは十分であり、戦況を好転させるという期待感は大きかったのでしょう。

しかし、その期待を実現するには、相当な力量が求められますが、残念ながらヒンデンブルクもルーデンドルフもそこまでのものはなかったのでしょう。その後の歴史を知る我々は、この二人に軍人としての指導力は認めることができるとしても、第一次大戦という戦争のリーダーとしてはドイツ帝国に敗戦をもたらした当事者であると断言せざるを得ません。さらに言えば、この二人がナチスおよびヒトラーの台頭に直接的に関わっていたこと(注4)から、政治家としての力量も問題視せざるを得ないのです。

 

(6)に続く

 

【注2

西部戦線を一気に攻略できずに塹壕戦となってしまい、開戦前に計画していたシュリーフェン・プランの目的であるフランス陸軍の壊滅と東部戦線への転戦をまったく達成できなかったことをさします。

 

【注3

東部戦線で挙げた成果というのは、1915年のタンネンベルクでの戦いをさします。

第八軍(引用者注、ヒンデンブルクが軍司令官、ルーデンドルフが軍参謀長)は、東プロイセンに予想以上に早く攻め込んできたロシア軍をタンネンベルクで包囲・殲滅した。ロシア軍は死傷者五万人、捕虜九万二千人の大損害を被った。対するドイツ軍の死傷者は、わずか一万から一万五千人である。この大勝利で、ヒンデンブルクとルーデンドルフは大いに名を上げた。実際の作戦は、対ロシア戦の専門家マックス・ホフマンが練り、二人はそれに乗っただけであったが、西部戦線の膠着から目をそらす意図もあって、政府は二人を東部戦線の「英雄コンビ」として宣伝し、国民的人気を博するようになった。(同書77ページ)

 

【注4

ヒンデンブルクは、1933年に大統領としてヒトラーを首相に指名し、ナチス独裁への最後の仕上げに一方の当事者として関与しました。ルーデンドルフは、1923年のミュンヘン一揆の際にはヒトラーとともにナチ党員の先頭に立って行進しました。

 

 

作成・編集:QMS 代表 井田修(201825日更新)