あるプロジェクト・リーダーの逝去

 あるプロジェクト・リーダーの逝去

 

今月の12日、演出家の蜷川幸雄氏が多臓器不全で亡くなりました(注1)。

 

生涯で200本(注2)を超える作品を演出し、自ら率いる劇団・スタジオやプロジェクトなども多く、生涯、演出家というのにふさわしい活躍をされた方でした(注3)。

  

筆者が直接観た作品で言えば、1990年の「卒塔婆小町」、同年の「PLAYZONE‘90 MASK」(少年隊主演のミュージカル)、1995年の「身毒丸」(藤原竜也の主演デビュー作)および1997年の「草迷宮」といった寺山修司の作品を演出したもの、1996年の「夏の夜の夢」、1997年の「常陸坊海尊」なども、今でもはっきりと覚えている作品です。

  

演出した作品は実に幅広く、ギリシア悲劇やシェイクスピア(および同時代のジョン・フォード)などから、三島由紀夫や寺山修司の作品、秋元松代・井上ひさし・唐十郎・清水邦夫・野田秀樹などの現代劇作家の作品、イプセン・チェーホフ・ブレヒト・アヌイ・カミュ・ベケットなどの演劇史に残る名作たち、村上春樹の小説からフランク・ギャラティが生み出した英語の戯曲を日本語に翻訳した「海辺のカフカ」、さらには「さまよえるオランダ人」(オペラ)、「魔女の宅急便」(ミュージカル)、「ガラスの仮面」(音楽劇)などなど、○○の演出家とジャンルを限定することが不可能です。

  驚くべきことに、演出作品は歳を経るにしたがって増え続け、21世紀にはいってからの本数が実に多いことに驚かされます。

  単に生涯現役の演出家というだけでなく、1980年代に始めた“ニナガワ・スタジオ”(名称はたびたび変更されました)の活動から、その後に大きく活躍する俳優を輩出しました。さらに、2006年に開始された“さいたまゴールド・シアター”のプロジェクトでは、演劇経験のない高年齢者とともに海外公演を行うまでになり、2009年には“さいたまネクスト・シアター”を立ち上げ、若手の育成に再度、挑戦し続けました。

  

演劇作品というものを、ひとつの商品(サービス)と考えれば、演出家というのは商品開発プロジェクトの責任者というべき存在でしょう。そうしたプロジェクト・リーダーを社会人になって以来、やり続けるということ、それも初演出作品を発表してから半世紀近くもやり続けたということは、特筆すべきでしょう。

  単にやり続けただけでなく、多くのプロジェクト(演出)で新人(舞台における演劇経験のない人)を主役または重要な役で使い続けたという点も無視できません。演出を通じて、俳優の育成も同時に行っていたわけです。いわば、新入社員をプロジェクトの中心メンバーに据えて人材育成(即戦力化)を行いながら、失敗の許されない商品開発プロジェクトを担当するリーダー、という仕事をやり続けたことになります。

  その過程では、いろいろと迷うこともあれば、批判されることもあるでしょう。もちろん、これは失敗作ということもあるでしょう。いずれかのタイミングで、立ち止まる(休業する)ことや辞める(引退する)こともあるのが、一般のプロジェクト・リーダーの姿です。

  まして、通常の企業人が商品開発のプロジェクト・リーダーを担当した場合、成功すれば、昇進し役員になって現場から離れていくでしょう。成功しているのに、現場でプロジェクトに関わり続ける人は、滅多にいません。

  普通の企業に勤めていたとしたら、とっくに定年を迎えて年金生活を送っているはずの年代になっても、現場でプロジェクト・リーダーであり続ける人は、まずいないでしょう。それを演劇という業界でやり続けたのが、蜷川氏でした。

  謹んでご冥福をお祈りいたします。

  

【注1

所属事務所(舞プロモーション)のHPに略歴が掲載されています。以下のサイトを参照してください。

http://www.my-pro.co.jp/ninagawa/ninagawa.html

  

【注2

ウィキペディアに挙げられている作品だけで200を超えます。所属事務所の作品年表で確認すると、公演本数は300を超えています。同一作品と思われても異なる公演会場で上演されたり、稽古場などで発表されたりした作品もあるので、現時点では、確定した演出作品数は不詳と言わざるを得ません。

 

【注3

蜷川氏の演劇に関わるキャリアのスタートは、俳優でした。また、演出の仕事といっても、演劇(舞台)だけでなく、映画監督として5作品、TVドラマの演出も3作品あります。そういう意味では、演劇(舞台)演出家としてのキャリアしかないわけではありません。

  

作成・編集:QMS代表 井田修(2016524日更新)