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2023年夏の3冊(1)~「眼の神殿」
今年は特にそうですが、夏は猛暑が当たり前となり、まともに仕事をすることが儘ならない日々が続きます。休みとなってもどこかに出かける気にもなれず、終日、エアコンの効いた部屋にいるだけで過ごしがちです。こういう時には、買ったままになっていた本を読むのによい機会と思い、この夏休みには「眼の神殿」「敗れざる者たちの演劇志」「星新一の思想」の3冊を読んでみました。
そのなかで今回は「眼の神殿~「美術」受容史ノート」(北沢憲昭著、2020年刊、ちくま学芸文庫)を採り上げます。
「眼の神殿~「美術」受容史ノート」は、サブタイトルにある通り、明治維新後の日本で西洋美術が受け入れられていく中で、単に西洋の絵画の技法やありかたを受容するだけでなく、「美術」という用語や概念を生み出し、見ること・見せることの仕組み(制度)を作り出していくプロセスを、高橋由一(注1)という最初期の洋画家と関連する人々を通じて描くものです。
彼の「螺旋展画閣」という構築物の構想を入り口に、芸術教育(大学南校美術部から工部省美術学校、東京芸術大学の前身となるもの、私立の画塾など)、内国勧業博覧会(各種の博覧会や展示会などのはしり)や博物館・美術館における展示という見せる仕掛け、芸術家の組織化(芸術協会など)、政府における美術担当部局(美術取調局)の設置要請などに考察を進めていきます。
その過程で、フォンタジーネやフェノロサといった、いわゆるお雇い外国人の影響や他の西洋画家や明治政府の有力者などとのやりとりを通じて、芸術・美術・美学・西洋画などの言葉と概念を発展させつつ整理していく状況が描かれていきます。
本書によれば、髙橋由一は江戸で生まれ育った武士で、幼少期より日本画を学びました。明治維新となった後、フォンタジーネから西洋の写実的な絵画技法を習得する一方、県令三島通庸の命でその技術を実践的に用いて山形市内の工事風景を記録する絵画などを描きました。
幼少期から日本画しか学んでおらず西洋画をほとんど知らなかったであろう人が、外国人からわずかな間だけ西洋画の基本(遠近法・透視図法の技術など)を学んだ程度で、ここまで技術を習得し実際に描くことができて、写真代わりに使われたり建築物の構想図を描けたりできたことは信じがたいほどです。
ちなみに、「螺旋展画閣」の構想図を含めて本書で紹介されているものは白黒のため、YouTube「山田五郎チャンネル」(注1)で紹介されているものを見ると、一層、その写実性に驚かされます。
明治期の洋画というと、黒田清輝などの海外留学経験者の活躍がスタートラインと思いがちです。しかし、当時の主流であった薩長土肥とは異なる出自であった高橋由一が、単に西洋画を描くだけでなく、美術に関する制度(用語の確立、教育体制、展覧会などの見せる仕組み、講演会などのメディアの活用、管轄する公的機関の設立・運営など)について、その全般を構築するのに多大な活動を行っていたことも、しっかりと理解すべきポイントでしょう。
本書は、もともと1989年に美術出版社から刊行され、第12回サントリー学芸賞を受賞しました。それから20年後にブリュッケ社より定本として復刻されたものを、2020年に文庫化したものです。そうした経緯があるため、「あとがき」が3編、解説が2編と、本文とともに充実しています。
個人的には絵を描くことは大変苦手です。観ることは、映像に始まり舞台やライブなどとともに、展覧会やイベントなどを通じて多少なりとも美術に興味をもってきました。また、30年ほど前にはアートマネージャーの養成セミナー(注2)に参加したこともあります。
もし、最初に出版された時に本書を手に取っていたら、日本の美術に対する興味を少なくとも今よりはしっかりともつことができたはず、と思われて残念に感じられる半面、今改めて読んだことで、これからの絵の見方や接し方にプラスの影響が期待できるだけでも本書を読んだ価値があったと言えそうです。
【注1】
高橋由一については、山田五郎チャンネルで採り上げている中で、代表作の「鮭」をカラーで見ることができます。
【総集編・制作雑感付き】明治西洋画の黎明期が丸わかり!高橋由一・原田直次郎・黒田清輝【3人の偉人/ながら見・睡眠用】 - YouTube
金刀比羅宮に高橋由一館があり、そこに27点の作品があるそうです。
【めでタイ絵】見れば2022年良い年になるかも!?新年のご挨拶【高橋由一「鯛」】 - YouTube
【注2】
田中珍彦氏の訃報に接して - QMS 行政書士井田道子事務所 (qms-imo.com)
作成・編集:QMS 代表 井田修(2023年8月31日更新)
2023年夏の3冊(2)~「敗れざる者たちの演劇志」
次に採り上げるのは、「敗れざる者たちの演劇志」(流山児祥作、西堂行人編、2023年論創社刊)です。
この本は、劇団主宰者・演劇プロデューサー・演出家・劇作家・俳優である流山児祥がコロナ禍で演劇公演の中止が続く最中に、編者の西堂行人の提案を受けて自らの演劇史をトークライブという形で語ったものに基づき、写真や脚注をふんだんに取り入れた対談集です。
本書のもととなったトークライブは、space早稲田・上野ストアハウス・シアター新宿スターフォールド・座高円寺阿波おどりホールで約1年間にわたって6回行われました。最終回の後半は3人の若手演出家が加わっていますが、それ以外は全て流山児祥と西堂行人の対談という形で行われており、1970年代から現在に至るまでの流山児祥の個人演劇史であるとともに、日本の演劇界の歴史と課題が語られています。
労働運動家だった父親を持ち、熊本で生まれ育った流山児は中学時代に関東に転居し、青山学院大学に入学します。高校の頃から当時盛んだった学生運動に関わり始める一方で、演劇にも目覚めます。特に、唐十郎と別役実に衝撃を受けたと語っています。
鈴木忠志、佐藤信、寺山修司などいわゆるアングラ四天王(もう一人は唐)とも出会い、自らの演劇集団を立ち上げたり、唐の主宰する状況劇場で研究生となったりして、学生運動と演劇活動に明け暮れる日々が1960年代後半です。
その中から、流山児の演劇活動のコアとなる「演劇団」が生まれます。そのメンバーは全員が全共闘運動(学生運動)の経験者で、なかでも俳優として参加した新白石は青山学院大学の全共闘議長だったそうです。
1970年代にはいると、流山児祥個人としても多忙(早稲田小劇場の研究生同期の女性との恋愛・結婚・長女の誕生・離婚)を極めていながらも、「演劇団」の核として多くの舞台を生み出していきます。このころは「演劇団」も含めて小劇場と呼ばれる演劇が第二世代になっており、70年代後半になると野田秀樹など次の世代が小劇場の世界にも登場します。流山児も野田の作品を演出したりします。
80年代の第三世代の時期になると、「演劇団」は「第二次演劇団」(84年解散)、そして「第三次演劇団」(90年解散)となり数多くの作品を生み出すとともに、他の演劇人との交流がアングラ系や小劇場系に留まらず、商業演劇系やアジア諸国(特に韓国)に広がっていきます。84年より流山児★事務所を設立し、“新しい出会い”と“小劇場運動の横断的結合”を目論み、プロデュース公演が増えていきます。私生活では80年に女優の山口美也子と再婚し、翌年に長男が誕生します。
1990年代には80年代の動きが発展し、千田是也などの新劇の大御所との交流やロンドン留学を体験しつつ、95年には東京演劇実践塾を開校し、翌96年に流山児組に発展・改組し、拠点となる稽古場兼劇場としてspace早稲田を開場するなど、若手の育成に本格的に取り組んでいきます。一方、98年には楽塾という中高年齢者を対象とした演劇ワークショップを開始(注3)し、これまでとは異なるアプローチで新たな出会いを実現します。
2000年代になると、90年代にスタートした海外公演に本格的に取り組みます。海外公演は90年代には韓国で2回だけでしたが、2000年以降はカナダ、エジプト、中国、台湾、マカオ、香港、ロシア、イラン、ベラルーシ、インドネシア、イギリス、USA、ルーマニアといった国々や地域(複数回上演した国・地域を含む)で公演していきます。いわゆる劇場での公演もあるのでしょうが、フリンジシアターと呼ばれる野外公演や仮設劇場での公演も相当あるようです。
国内では、楽塾に加えて3年間の期間限定のシニア劇団「パラダイス一座」を旗揚げしたり、2007年より現在に至るまで「次世代を担う演劇人育成公演」(後に「日本の演劇人を育てるプロジェクト」)として社団法人日本劇団協議会の主催公演をプロデュースしたり、演出家コンクールを通じて自分の子供やそれよりも若い世代との新たな出会いを生み出したりと、相変わらず様々な仕掛けを試みています。
これらの創作・制作活動で演劇と関わるだけでなく、観客としても劇場やアートスペースなどに通う日々を半世紀以上過ごしています。最も演劇を観ている(かもしれない)日本人でもあるのです。
流山児にとって、ライフ(人生、生活)=演劇であり、自ら行うものであると同時に他者の演劇も悉く目にしようとするものでもあります。再婚し離婚した山口美也子が2000年7月(正式な離婚は6月)にコメントしているように、「彼にとっては劇団員が家族で、芝居のことしか頭になかった。それが彼の生き方だった」(「年譜」の「出来事」欄)のでしょう。
その生き方を今でも貫いていることに驚きを隠せません。若いころには演劇鑑賞が趣味だった筆者にとって、小劇場では一つの舞台において一観客でいることに体力や集中力が不可欠でした。40歳以降はさすがにきつくて続きませんでした。
ところで、本書の特徴として、当時の豊富な写真と膨大な人名の脚注があります。マルクスや孫文、毛沢東や伊藤博文に始まり、同時代の演劇関係者に数多く言及しており、合計で564名に及んでいます。これらを見て読むだけでも、その当時の演劇シーンを思い出すことができます。
その半面、例えば、出口典雄、吉田鋼太郎、加藤健一、成井豊、鈴木聡、小野寺丈といった、70年代から90年代の小劇場で活躍していた人々については言及がありません。特に、ジーパン・シェイクスピアの異名をとった劇団シェイクスピア・シアター(注4)は、流山児の公演と同様に、渋谷のジャンジャンで公演を行うことが多く、蜷川幸雄ともつながりが深い吉田鋼太郎が役者として活躍していたこともあり、何らかの言及があってもよかったのではないかと思います。
本書を読むと、流山児祥という人がまさに演劇人(正確には小劇場人と呼ぶべきかもしれませんが)であることが納得できます。その持ち味は、何でもありで人を巻き込む力でしょうか。劇団を作ったり、プロデュース公演を仕掛けたり、とにかく人を巻き込んでオーガナイズしていくことが楽しくて仕方がない人なのだろうと思うしかありません。演劇を観ることの点でも楽しくて仕方がないかのように、半世紀以上にわたって観客であり続けているからこそ、更に次の演劇人との出会いが生まれるのが必定です。出会った人々全員について言及することは、とてもできない相談でしょう。
このように何らかの形で演劇に触れ続けることが、たぶんライフ(生活、人生)なのでしょう。流山児本人は、2000年以降、演劇を通じて戦う意志はあっても敗れ続けているという自覚があるようですが、今も現役のプロデューサーで演出家でもあり、次の世代の演劇人とも積極的に関わり続けている姿を知ると、小劇場の人間国宝か演劇を作り観ることの重要無形文化財として登録すべき存在ではないかと思わずにはいられません。
【注3】
一般人を対象とした演劇ワークショップは、80年代からいくつかの試みがありました。例えば、如月小春(および如月が主宰したNOISEメンバー)による池袋コミュニティカレッジ(池袋の西武百貨店かPARCOの8階あたりで開催されていたもの)で行われていたもの、山の手事情社主宰の安田雅弘による自治体と共催のものなどです。劇団員や研究生の募集を兼ねたワークショップや演ぶ(演劇ぶっく)ゼミナールの一つとしてのワークショップなど、第三世代の小劇場が盛んだったころは演劇や演技に関するワークショップが、東京都内はもとより全国的に開催されていた記憶があります。
【注4】
演出家の出口典雄が主宰したシェイクスピア・シアターでシェイクスピアの四大悲劇の主人公を全て演じたことがある川上恭徳については脚注があります。
作成・編集:QMS 代表 井田修(2023年9月7日更新)
2023年夏の3冊(2)~「敗れざる者たちの演劇志」(付記)
前回のコラムで“若いころには演劇鑑賞が趣味だった筆者にとって、小劇場では一つの舞台において一観客でいることに体力や集中力が不可欠”と記したように、100人座ればいっぱいの桟敷席に200人が詰め込まれたり、スモークで客席が満たされて舞台が見えなくなったり、水や紙吹雪を頭からかぶったりしながら、2時間程度はそのままの姿勢でいるのが小劇場で芝居を観ることでした。
ザ・スズナリ(下北沢)、駅前劇場(下北沢)、OFF・OFFシアター(下北沢)、東演パラータ(下北沢)、シアターグリーン(東池袋)、ジャンジャン(渋谷)、タイニイ・アリス(新宿3丁目)、みゆき館劇場(銀座)、赤坂プレイボックス(乃木坂)、自由劇場(六本木)、駒場小劇場(駒場東大前)、スタジオあくとれ(中野)、明石スタジオ(高円寺)、シェイクスピア・シアターのアトリエ(高円寺)、ジェルスホール(大塚)、テアトルエコー(恵比寿の稽古場でしたが椅子席でした)、恵比寿Factory、青山円形劇場(表参道)、ブレヒトの芝居小屋(武蔵関)などによく行ったはずです。当時は、桟敷に胡坐で観るのが通例で、よくてベンチシートに着席して100人にも満たない客が舞台を観ていました。
黒テント(主宰は佐藤信)の「女殺し油の地獄」は、都立家政にあった劇団のアトリエで立ち見をしたり、第七病棟(主宰は石橋蓮司)の公演では民家を改造した上演場所が見つからずに荒川区内で迷子になったりしたこともありました。唐組では、紅テントで芝居を観ただけでなく、廃業した銭湯を改造したところで上演した「ビニールの城」を観たこともあります。
ここからは、筆者の個人的な演劇鑑賞史です。本書の巻末に付されている「年譜」(流山児祥が演出またはプロデュースした作品の上演史年表)から私個人が観た記憶があるもの(記憶違いもあると思われますが)をピックアップしてみましょう。
1982年
「改訂版・碧い彗星の一夜」「唇からナイフ」
「ザ・レビュー★月夜とオルガン」
1983年
「帝国月光写真館」「新邪宗門」「さらば、映画の女よ」「天狼騎士団」
1984年
「ザ・レビュー 虎★ハリマオ」「さらば映画よ、ファン篇」「冥王星の使者」「じゃがいもピストルの午後」「悪魔のいるクリスマス」
1985年
「碧い彗星の一夜◎Ⅱ」「危険な関係」「悪魔のいるクリスマス’85」
1986年
「フェアリー・テール」「3・14 SOULハード・ボイルドは二度死ぬ!」
「流山児版・最後の淋しい猫」「ラスト・アジア」
「さよなら、悪魔のいるクリスマス」
1987年
「やさしい犬」「男たちの後の祭り」「悪魔のいるクリスマス★アゲイン」
1988年
「グッドバイ或いは夏と石炭」「マクベス」「悪魔のいるクリスマス’88」
1989年
「寿歌」「寿歌Ⅱ」「青ひげ公の城」「流山児マクベス」
「悪魔のいるクリスマス’89」
1990年
「流山児ハムレット」「芸人たちの挽歌」
1991年
「プロメテウスの蛍~桜姫東文章」「流山児マクベス」
1992年
「おんなごろしあぶらの地獄」「ピカレスク・イアーゴ~オセロより~」
「メルヘン・ミュージカル 悪魔のいるクリスマス」
1993年
「ザ・寺山」「tatsuya~最愛なる者の側へ~」「女たちの桜の園」
「メルヘン・ミュージカル 悪魔のいるクリスマス」
1994年
「悪漢リチャード」「おんな・三匹!」「悪魔のいるクリスマス ラスト公演」
1995年
「青ひげ公の城」「ピカレスク南北~盟三五大切より~」
1996年
「ダフネの嵐」「焼跡のマクベス」
1997年
「OUT」「ザ・寺山」
これらの約50作品のうち、特に記憶に残っているものとして第一に「悪魔のいるクリスマス」を挙げることができます。
この作品は、在間ジロ(北村想の別のペンネーム)作・流山児祥演出で1984年12月に美加里(少女役)・塩野谷正幸(少年役)・九十九一(作家役)主演で下北沢の駅前劇場で初演されて以来、流山児が毎年12月に再演やミュージカル化などを繰り返したり、北村想演出によるプロジェクト・ナビ版が作られたりするなど、さまざまな作品が作られました。80年代の小劇場の中から生まれた小劇場の古典ともいえる作品です。
冬の夜の公園で、ままごと遊びのような行動を取っている少年と少女に作家と称する男が出会います。「寒くありませんか」と何度も問いかける男の前で、少年と少女は人間の行いからコンピューターで代替できるものを引き算すると、真に人間的なものが残るはずで、それは食べて飲んで眠るという日々の繰り返しだと問いかけるがごとく、ままごとのような遊びを続けます。そして、凍死したはずの3人の前に天使が降臨します。3人を天国に召すために地上に姿を現したのです。しかし、作家と称する男は眠りから覚め、天使を恫喝します。男はサタンであり、「さ」がつく仕事を続けながら神から地上に留め置かれた自らの存在を呪い、天使を追い返します。
ストーリーを覚えている限り述べると、こういう感じです。その初演から毎年、流山児の演出で10年以上見続けていました。初演で少年を演じた塩野谷正幸が作家を演じるようになったり、少年を有薗芳記や曽我泰久が演じたりしましたが、少女役は当時のアングラ・小劇場界で三大名花(注5)と言われた美加里に尽きる感じでした。なお、最後に観たのは、21世紀になってから名古屋で北村想が主宰するプロジェクト・ナビが上演したものでした。
北村想といえば、劇団四季のファミリーミュージカル「ふたりのロッテ」と中高生向けの歌舞伎入門公演(解説付き)しか観たことがなかった筆者が、自分の意思でチケットを購入し、全編を初めて見通した作品「不思議の国のアリス」(伊藤つかさ主演、シアターアプルで上演されたミュージカル)の作者でした。この作品の演出・振付を担当した竹村類は「演劇団」創立時に振付を担当していた人でもあります。そこから北村想の作品を観る機会が多くなり、流山児演出の作品にも触れる機会が多くなっていきました。その二人の生み出した伝説的な作品が「悪魔のいるクリスマス」だったと言えます。
「新邪宗門」は、本書の年譜の脚注「出来事」の欄にあるように、“5月4日、寺山修司死去。本番前日、寺山さんが亡くなる。黒ヘル、鉄パイプ、革命歌の渦巻く騒然とした黒衣たちによる観客挑発劇”です。開演前に本多劇場の通路に観客全員が並ばされ、列を乱そうものなら黒づくめの集団に鉄パイプで殴られそうになる中で、大音響の音楽が鳴り響き、芝居が始まります。その列にいたことを強く思い出します。
それまでは映像作家としての寺山修司しか知らなかった筆者に、演劇人としての寺山修司を体験させてくれたのが、流山児祥でした。その後も「さらば映画よ、ファン篇」「青ひげ公の城」といった作品で寺山修司の世界を知ったり、「ザ・寺山」でその影響を垣間見た気がしました。もちろん、これらを入り口に、岸田理生や和田喜夫(楽天団)や美輪明宏などを通じて寺山修司の作品世界を多く知ることになります。
「ラスト・アジア」は、装置の大きさや借景としての工事現場にまず驚かされました。用賀駅周辺にまだ高層ビルがひとつも建っておらず、その基礎工事が始まっていたかどうかという時期に、空き地(建設予定地)で野外劇を行う企画でした。観客の目には、舞台となる土の山とその向こうに見える首都高速道路が照明に浮かんで見えて、開発途上のアジアを体感させられた覚えがあります。
野外劇というと、それまでは川村毅が主宰する第三エロチカが「ニッポン・ウォーズ」を上演した利賀フェスティバルくらいしか観たことがなかったため、都市の工事現場も舞台になることへの驚きがありました。
「ラスト・アジア」はその川村が本を書き、佐藤信が演出を担当しました。スタッフとともに、様々な劇団の役者たちが一堂に会するのもプロデュース公演の魅力ですが、この作品は更に体を張る迫力も堪能できた作品でした。1回しか観ていないにも関わらず、強烈な印象が今も残っています。
流山児は映画「血風ロック」を監督したり、いくつもの映画やテレビドラマに出演したり、商業演劇の主演俳優としてロベール・トマ作の翻訳劇「罠」で主人公ダニエルを三越劇場(だったと記憶していますが間違っているかもしれません)で演じたりするなど、多種多様なシーンで芝居を作ることに関わり続けてきました。
昨年も相変わらず年間8作品をプロデュースし、うち4作品で演出も行うなど、70歳代後半でも若いころと変わらないペースで芝居を作り続けている姿は、生涯一演劇人であり続けています。本書のタイトルのように、敗れざる者ではあっても、そこに留まらずに更に走り続けようとする姿には敬服するしかありません。
【注5】
あとの二人は、流山児祥とともに「演劇団」を作った北村魚と、当時はブリキの自発団(主宰者は生田萬)の主演女優だった銀粉蝶だったと思います。
作成・編集:QMS 代表 井田修(2023年9月10日更新)
2023年夏の3冊(3)~「星新一の思想」
3冊目に採り上げるのは、「星新一の思想~予見・冷笑・賢慮のひと」(浅羽通明著、2021年筑摩書房刊)です。
この本は、「星読ゼミナール」という星新一(注6)の作品の読書会を主宰している著者が、その読書会での議論や先行する評伝なども踏まえて、作品論(の一部)を取りまとめたものです。星新一の作品数は1000篇を超えるそうですが、本書で扱っているのはその4分の1ほどだそうです。
始めに、コロナ禍を入り口に星新一のショートショートの作品を通じて、ディストピアとユートピアが描かれているかのような世界を考察します。そのなかで、人生や世界のありかた、特に秘密・偽装・スパイといった反転する世界や人生に触れる作品を論じます。また、ロボットやエイリアンを描くことで人間や人格、特にアスペルガー症候群から作品を読み解こうとする試みを見せます。
後半(第5章以降)は、星新一の作品を巡る文学論と言えるかもしれません。SFショートショートではない長編作品の「人民は弱し 官吏は強し」を含めてみると、星新一作品の特徴である感情や心理の描写の欠如、その結果として出現する主人公への読者の感情移入・自己投影の困難さ、といった特徴が語られます。そして、SF(空想科学小説)にしては空想というほど現代の現実から遊離している設定もあまり多くはなく、科学もさほど重視されているようには思われないことなどから、民話から神話、更に寓話といったジャンルこそ、星新一の作品にはふさわしいのではないかと考察を進めています。
同時に、プロの作家としての星新一についても1章を設けて言及すること(第7章)を忘れていません。本書は作品論から新人発掘の話まで紹介しているので、星が作家という職業をどのように考えていたのかも様々なエピソードを通じて知ることができます。
個人的には筆者も小中学生の頃に星新一の作品を読んでいたはずです。とはいえ、ショートショートを何冊か購入していただろうというだけで、具体的な作品名を挙げるとなると、昔のことであり過ぎて、思い出そうにも何も出てきません。もしかすると50年近く読んでいない作家ではないかと思います。
中学生くらいから、より長い作品、横溝正史や高木彬光の長編推理小説であったり、同じコナンドイルでもシャーロック・ホームズだけでなく「ロスト・ワールド」などに興味が移ってしまいました。ちなみに、筒井康隆や眉村卓などのショートショートは高校生の頃までは読んでいたのではないかと思いますし、国内外の短編小説もそれなりに読んでいました。特に、村上春樹の初期の短編集や新井素子(星新一が自ら見出した独自の文体をもつ作家)には大学の頃に嵌まっていた気がします。
振り返ってみると、星新一を入り口にショートショートの楽しみを覚えたおかげで、短編から長編へと小説全般に興味が広がっていった半面、星新一に立ち戻る機会をなかなか持てなかったことは多少なりとも残念に感じます。
コロナ禍が始まった2020年の頃、感染症による人類の危機を予見した作品として「復活の日」を挙げる人が多くいました。作者の小松左京は、「日本沈没」もそうですが、作品が書かれた時代の最先端の科学的知見に基づき、自らの洞察も織り込んで、SFとして長編小説を生み出すところに持ち味があります。「復活の日」で言えば、急速に感染が広がるのに航空機のネットワークに着目するなどディテールまでしっかりと描かれていることで、絵空事でないアクチュアリティ(実際に起こったことであるかのようなリアリティ)を表現しています。
星新一の作品には、そういう意味でのアクチュアリティはありません。そもそも、短編小説よりも短いショートショートでは科学的知見を積み上げていく表現手法は採れないでしょう。
しかし、描かれる社会や独特の語り口(本書でも口承文芸としての言及があります)で星新一の作品世界が出来上がっており、その世界からどのようなメッセージを読み解くのかは読者に委ねられています。まるで、江戸時代の人々や生活に基づく古典落語を現代の人々が聞いて楽しみながら、人間の生き方や生活ぶりに共通するものを感じるように、星新一のショートショートは未来の人々も私たちと同様に娯楽として楽しんだり、作品のもつ現代的な意味を解読したりするのにも適したテキストとなるでしょう。
本書はその際のガイドブックでもあり、星新一の作品世界への案内書でもあります。帯にある惹句‐それは人類への贈り物~さあ、「ボッコちゃん」から読み直そう。‐にあるように、改めて星新一の諸作品に向き合ってみるべき時期に私たちは差し掛かっているのかもしれません。
【注6】
作家星新一の略歴や作品の詳細は、以下の公式サイトを参照してください。
作成・編集:QMS 代表 井田修(2023年9月14日更新)
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