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ロバート・ウィルソン氏の訃報に接して
先週木曜日(7月31日)、アメリカの舞台演出家兼劇作家のロバート・ウィルソン氏が83歳で死去したことが公式HPで発表されました(注1)。それを受けてメディアでも訃報が報じられました(注2)。
氏は1960年代より実験的なステージを創作する舞台演出家兼劇作家として活躍し、演劇・オペラ・ダンスなどの舞台芸術の分野で20世紀後半を代表する演出家でした。また、舞台照明やインスタレーションなどステージに関連するものだけでなく、彫刻、絵画、家具などのデザインでもさまざまな業績を残しています。
個人的には、オペラ“浜辺のアインシュタイン”(注3)と“白鳥の歌”、“浜辺のアインシュタイン”の製作模様を描いたドキュメンタリー映画(注4)を観たことがあります。
最初に触れたのは“浜辺のアインシュタイン”のドキュメンタリー映画です。1981年だったか、歌舞伎町にできたシアターアプル(現在の新宿東宝ビル、当時のコマ劇場の地下にあった劇場でもともとはコマ劇場の稽古場だったところ)の杮落しでコンテンポラリーダンスカンパニーの公演をゲネプロから観たこともあり、現代の舞台芸術の製作過程に多少の興味を持っていた頃でした。この映画で、ロバート・ウィルソンとパフォーマーたちのやりとりやフィリップ・グラスの音楽(注5)とルシンダ・チャイルズの振付にも注目するようになりました。
それから数年が経ち、天王洲アイル劇場(現在の天王洲銀河劇場)が開場することを知りました。その杮落し公演としてオペラ“浜辺のアインシュタイン”が行われた記憶があります。
この作品は上演時間が4時間はあったでしょうか。初日と最終日のチケットを事前に購入して、いよいよ体験するに至ったのですが、想像以上に舞台パフォーマンスにも音楽にもはまり込んで、1週間ほどの公演期間にわたってほぼ毎夜劇場に通って当日券を買って観続けました。当時、演劇やオペラやバレエなどを頻繁に観ていましたが、ここまで引き込まれた作品はありません。
今、オペラ“浜辺のアインシュタイン”の映像を見返してみると、30年以上も前に嵌まった感情が改めて蘇ってくるものです。こうした作品を生み出した人が亡くなったという知らせを聞くと極めて残念です。
【注1】
【注2】
たとえば、以下のように報じられています。
ロバート・ウィルソンさん死去 米舞台演出家、83歳:時事ドットコム
演出家ロバート・ウィルソン死去、「浜辺のアインシュタイン」ほか前衛舞台芸術の巨匠 - ステージナタリー
【注3】
Einstein on the Beach - Knee Play 1
【注4】
Einstein on the Beach: The Changing Image of Opera (1986)
【注5】
映画“コヤニスカッツィ”のほうが先だったかもしれません。
作成・編集:QMS代表 井田修(2025年8月3日)
2025年夏の3冊(1)~「砂の器 映画の魔性 ~監督 野村芳太郎と松本清張映画」
今年の夏は6月から真夏日が続き、梅雨入りした途端に夏本番と思わずにいられない暑さとなり、熱中症の心配や予防に忙しくなりました。暑さを避けて、今春買った「砂の器 映画の魔性 ~監督 野村芳太郎と松本清張映画」を一読し、続けて映画製作に関する本を2冊(「ファイナル・カット~『天国の門』製作の夢と挫折」と「マスターズ・オブ・ライト[完全版]~アメリカン・シネマの撮影監督たち」)読んでみました。
そこで今回は「砂の器 映画の魔性 ~監督 野村芳太郎と松本清張映画」(樋口尚文著、2025年刊、筑摩書房)を紹介します。この本は、映画評論家として戦後の日本映画を歴史的に描く著作が多い樋口氏が、30年来温めてきた映画「砂の器」(注1)の製作資料や関係者の証言などをもとに、「砂の器」が日本はもとより海外(特に中国)でも感動をもたらしてきたのか、検証と考察を進めています。
本書の特徴として、著者自身が直接行っている関係者へのインタビューや会話に基づいてさまざまなエピソードを紹介しつつ、映画「砂の器」のもつ魅力にどのような効果があったのか分析していく点があります。また、関係者が残したり著者が自ら収集してきた豊富な資料(絵コンテ、メモ、写真、当時の記事など)に基づいて、野村芳太郎監督の演出プランや松竹という配給会社の宣伝や作品上映の模様を明らかにしています。
例えば、映画のクライマックスとなる、和賀英良が指揮する「宿命」と警視庁内の捜査会議と本浦父子(子が後の和賀英良)の旅路が交錯して進むシーンです。原作と映画(シナリオ)で最も大きく変わっている本浦父子が日本中を遍路姿で歩いて旅していくシーンについて、その狙いや効果を分析するとともに、橋本忍と脚本を書いた山田洋次と交わした会話が紹介されています。
それにしても「自己の業病をなおすために、信仰をかねて遍路姿で放浪」という程度にしか原作では語られていない千代吉と秀夫の旅路がシナリオ第一稿ではすでに想像力をたくましくして橋本忍によって大幅に膨らまされている。(中略)
この旅路のシークエンスはそこまでの刑事の「追っかけ」ではなく「調べ」が淡々と続く展開と比べると、音楽も加わって俄然悲劇的に誇張された展開となって観客を刺激する。(中略)
私は山田洋次監督と『砂の器』の話をしている時に、「だいたい君おかしいよね。ルンペンというのは冬場はあたたかい方面へ南下するものだよ。それが『砂の器』ではあの乞食の親子はどんどん北の雪の中に旅するんだから、本当は変なんだけど、そこは橋本さんがあえて画としての悲しさを狙ったわけだね」と言われて爆笑したのだが、あの旅路は落ち着いて観るとそういう飛躍だらけなのだ。(本書82~84ページより)
「砂の器」予告編では構想14年となっていますが、その間映画化の計画が進んでいたわけではありません。映画化を企画した橋本忍が山田洋次と共同で脚本を書いた1961年(注2)から、橋本自身がいくつもの映画化に関わったり、監督の野村芳太郎が松本清張原作をいくつも映画化していったりする中で、映画「八甲田山 死の彷徨」(森谷司郎監督)の製作と並行して、橋本プロダクションと松竹で1974年に映画化が具体化したものです。
もともと企画・脚本の段階で、松本清張の原作とは大きく異なるいくつもの重要な変更が加えられます。例えば、和賀英良のキャラクター変更(エゴイスティックなだけからニヒルさが加わり子供時代の境遇とのつながりや父親の感情ともつながる)、実の父親である本浦千代吉が生きていること、紙吹雪の女=ヒロインを高木理恵子(演じるのは島田陽子)一人にまとめること(原作ではバー・ボヌールの女給である三浦恵美子と劇団の事務員である成瀬リエ子)、ヌーボーグループという新進気鋭のアーティストたち及びそのリーダー格の関川重雄はまったく出てこないこと(描くTVドラマ版もある)などです。
更に、音楽の違い(電子音楽かクラシックか)や殺人トリックの違い(音響殺人は描かれない)もあれば、和賀英良を逮捕するシーンも原作の羽田空港から演奏会場に変わっています。
さて、本書の核心を占めるのが、野村芳太郎監督の演出に関するものです。野村監督自身の演出メモやコンテなども数多く紹介されたり、著者自身の分析がシーンごとに続きます。これらの記述を思い返しながら作品を見返すのも興味深いものがあります。
本書の指摘では、脚本も演出も、ハンセン病とその病者を巡る社会や法制度を告発する社会派映画を狙っているわけではないという意味において、基本的にメロドラマ志向であり、いかに観客を感動させるかで勝負した作品であったようです。その文脈において、捜査会議で語る丹波哲郎の独特のセリフの間も、ドラマを盛り上げるという点で実に効果的だったと理解できます。
宣伝・告知用のポスター(本書105ページ)も、父子の遍路姿を後ろから撮っただけで、出演者の名前もなく、内容に関する宣伝コピーもありません。オールスター出演の大作映画であれば出演する俳優たちの名前が全面にありそうですし、社会派的な作品であれば何らかのメッセージが宣伝コピーとして表現されるはずです。
この作品で重要な地位を占める音楽については、音楽監督の芥川也寸志は疑問をもっていた節もありながらも菅野光亮に作曲を委嘱して、自らは劇伴の助言や和賀役の加藤剛に対する指揮の演技指導などに当たった経緯なども興味深いものです。
ちなみに、「宿命」の作曲が出来上がったのが1974年の初夏と思われ、東京交響楽団による録音が8月下旬、コンサートシーンを埼玉会館で3日間撮影したのが9月中旬、追加のロケ撮影や編集作業があって、映画「砂の器」としてロードショー公開されたのが10月19日となっています。この辺りの撮影進行や公開準備(宣伝など)について関係者のインタビューなどが本書にありますし、コンサートシーンに関する野村芳太郎監督の詳細な撮影メモをあります。ただ、どうして音楽と映像の編集作業ができたのか、今となっては職人技の一言でしか理由が説明できないのかもしれません。
1974年秋の公開当時、先行ロードショー時のみ休憩ありの2部構成(第1部『紙吹雪の女』、第2部『宿命』)だったことは、本書で初めて知りました。翌年は「カルメン故郷に帰る」(松竹最初の全編カラー作品)との2本立てロードショー、その後も数年置きに同様の2本立てロードショーを繰り返し、名作として評価を確立していきます。
筆者が「砂の器」を初めて観たとき(1983年)は「天城越え」との2本立て上映のロードショーだったと記憶しており、当然、休憩なしで一気に上映するものでした。興行上の都合もあったかもしれませんが、多分、休憩がないほうが観ているほうも感情的に盛り上がるのではないでしょうか。
映画「砂の器」は日本だけでなく海外でも多大な影響があるようです。また、現代の映像制作者たちにも様々な影響を及ぼしています。ただ、影響ということでは、本浦秀夫(後の和賀英良)を演じた春田和秀氏への影響も無視できません。何しろ、子役を辞めた後は一切芸能活動をしていないにも関わらず、作品を観たことがある人には今でも“秀夫”として認識できる人がいる、つまり、「砂の器」の出発点である三木謙吉(演じるのは緒形拳)が映画館で和賀英良も写っている記念写真を見て“秀夫”だと確信したことが十分にありうるということを実証しているからです。
四季から二季に変わったと言われる日本ですが、映画「砂の器」を語る上で欠かせない、遍路姿の父子が放浪するシーンには四季がある日本があります。
【注1】
YouTube上には、1974年に公開された松竹映画「砂の器」に関する様々な映像が溢れており、今でも大きな影響力を有している作品であることがわかります。
【注2】
著者による野村芳樹氏(野村芳太郎監督の息子でいくつもの作品でプロデューサーを務めた)へのインタビューによると、1961年の4月に子役を入れて桜のシーンを撮影したそうです(本書101ページ)。
作成・編集:QMS 代表 井田修(2025年6月30日更新)
2025年夏の3冊(2)~「ファイナル・カット~「天国の門」製作の夢と挫折」
次に採り上げるのは、「ファイナル・カット~「天国の門」製作の夢と挫折」(スティーヴン・バック著、浅尾敦則訳、1993年筑摩書房リュミエール叢書13)です。
前回紹介した映画「砂の器」が、一度は製作中止なったものが14年後に企画として復活し見事に製作・公開された成功例であるとすれば、映画「天国の門」(注3)は、作品として完成したものの、そのプロセスがあまりにひどく、また興行成績が壊滅的に悪かったために、製作会社自体が崩壊してしまった話です。その経緯や背景について作品を製作したユナイテッド・アーティスツ(UA)の製作担当副社長として直接関わっていた著者が、当時の日記に基づいて著したものが本書です。
ユナイテッド・アーティスツ(UA)はもともと、メアリー・ピックフォード、ダグラス・フェアバンクス、チャーリー・チャップリン、D・W・グリフィスという、映画史に名を残す4名が、主演俳優や監督の作りたい映画作りを目指して1919年に設立した映画会社でした。そのため、1970年代当時、既にトランザメリカ(TA)社の傘下にはいっていたものの、製作現場に口を出さない風土が色濃く残っていたようです。
「天国の門」が製作されようとしていた70年代後半のUAには、製作本数を増やす圧力がかかっていたようです。そこで、次々に製作に関わるべき作品とその関係者と話し合いを進めていきます。例えば、既にウッディ・アレンと4本製作する契約をしていたので、その3本目と4本目の脚本にゴーサインを出したりするとともに、同時並行で「天国の門」の製作にも当たります。
ウッディ・アレンは、複数本契約(注4)の最初の作品である「アニー・ホール」でアカデミー賞の主要部門を複数受賞するなど、成功を収めることができました。UAが監督・脚本・主演のウッディ・アレン及びその製作チームを評価し、次の作品製作に移るのは当然と言えるかもしれません。
ところが、「天国の門」の監督・脚本のマイケル・チミノについては、本当の年齢すら製作幹部は知らなかった程度の関係でありながら、どうしてスター視してしまったのか、訝しく思わざるを得ません。確かに、脚本家として「サイレント・ランニング」と「ダーティーハリー2」を生み出し、脚本・監督として「サンダーボルト」と「ディア・ハンター」を作りというように、それなりの実績を挙げてきてはいるものの、「天国の門」の製作に着手した時には、まだ「ディア・ハンター」がアカデミー賞を受賞する前だったのに、一流の映画監督であるかのように振る舞うことを認めていたようです。
「ディア・ハンター」が扱っているのは、ベトナム戦争という社会的な課題であり現代アメリカ史で避けては通れない汚点とも言いうるものです。ただ、その扱い方は事実の評価や多面的な視点とは無縁で、白人のアメリカ人の感情に訴えるドラマです。そして、見事な映像美や感傷的な音楽の効果もあって、映画史上に残る傑作のひとつとなりました。
「天国の門」で扱うのは、ジョンソン郡戦争と呼ばれるアメリカ合衆国の歴史上の事件です。ここでも、事実の評価や多面的な視点で史実を描く意図は見られず、映像や音楽・音響効果が優先されます。史実を無視するかのような姿勢は、「ディア・ハンター」への多少の批判で指摘されていたものの、製作陣は無視を決めこみます。
もちろん、製作途中に「ディア・ハンター」でアカデミー賞(作品賞・監督賞・助演男優賞・音響賞・編集賞)を受賞したことで、事後的にハレーションが起こったことは想像に難くありません。まして、「ディア・ハンター」で助演男優賞を受賞したクリストファー・ウォーケンが「天国の門」にも出演するのですから、期待が高まるはずです。
複数の製作プロジェクトを差配しながら、同時にUA及びTAの社内政治(出世競争)にも関与しつつ、製作会社の幹部(エグゼクティブ)の仕事は日常的な忙しさで全てが流れていきます。エグゼクティブといえども、ひとつひとつの作品に直接関わるエネルギーも時間も極めて限られたものになるのは仕方がないことかもしれません。当時は、スマホどころか携帯電話もなく、インターネットもリモートワークもありません。エグゼクティブには秘書がついて雑用をこなし、航空機で東海岸と西海岸を往復しながら関係者に直接会って仕事を進めるしか、他に方法はありません。
こうした事情もあり、製作会社の幹部の目が直接届かないところで、監督が作りたいように作ることに何らかのブレーキをかける人がいない状態に陥ってしまったのかもしれません。製作を準備する段階でも、キャスティングにマイケル・チミノ監督の意向が強く働いていたようです。主演女優のイザベル・ユペールはフランス人で英語があまり得意ではないにも関わらず、ヒロインに起用された事実から理解されるように、直接会っている状況でもブレーキが利かなかったのです。
最終的には、製作費と製作期間が当初の予定よりも大きく長くなりました。製作費は1100万ドルの予算が4000万ドルかかり、宣伝費用も含めると4400万ドルとなりました。本書のタイトルであるファイナル・カット(公開作品のための上映用の決定版を編集する権利)を有するUAは、マイケル・チミノ監督が当初意図していた5時間超のものでは一般公開できないと考え、プレミア上映時には4時間ほどのプレミア公開版を編集しました。しかし不評のため、更に短くして一般公開版は2時間半となりました。日本で当初公開されたものも、2時間半でした。ヨーロッパ版やディレクターズカット版は概ね3時間半程度のものですが、いずれも興行的には失敗と言わざるを得ません。
もちろん、いくら費用を掛けても、掛けた以上の興行収入があればよいのですが、「天国の門」は上映時間の長さだけでも十分に問題作です上に、扱っているテーマもドラマとしての内容も不評でした。その結果、興行収入を議論する前に、公開直後に上映を打ち切られることになり、製作費の10分の1も回収できませんでした。
本書の元となった映画製作は50年以上も前のことですし、本書が日本で出版されてからも30年以上が経ちます。それだけ時が過ぎているにもかかわらず、こうした経緯を読み返してみると、改めてプロジェクトマネジメントにおける課題が見えてきます。
映画製作に即して言えば、プロジェクトを進めるリーダーとプロジェクト・オーナー(資金の出し手でありプロジェクトの成果の帰属先であり成果物の所有権者)は明確に区分するとともに、オーナーの代理人である製作会社の製作担当役員はオーナーの意向や資金コントロールを確実に実行することが肝要という点に尽きるでしょう。「天国の門」ではプロジェクト・オーナーであるUA(及びその親会社のTA)が映画製作というプロジェクトにあまりコミットしていないように見受けられます。それが、監督の暴走と呼ぶしかない製作スタイルを助長したのではないでしょうか。
但し、プロジェクト・リーダーである監督が自らの資金でプロジェクト・オーナーにもなるのであれば、他者の干渉をまったく受けずに全責任を負って好きなように製作することは可能です。そうすることで、自ら作りたい作品を作りたいようにして生み出すケースも少なくありません。
一般の組織でも、プロジェクトのオーナーとリーダーは異なります。リーダーは、様々な要素を詰め込んだり、より完成度を高めるように手直しをやり続けたりするものです。オーナーは、そうしたリーダーが暴走してしまわないように、時には直接リーダーに釘を刺したりオーナーの代理人にプレッシャーをかけたりすることが必要不可欠なのです。オーナーとリーダーを兼ねるようなCEO直轄プロジェクトといったものは、なかなかうまくいかないのも首肯できます。異なる役割を兼ねても、結果は出ないのです。
ちなみに、筆者は日本で公開された当時、東京テアトル(現在はコナミグループの本店ビルがあるところにあった劇場)で「天国の門」を観ました。ここはスクリーンと客席の間に段差がなくスクリーンと客席が一体化している上映空間で、音響設備も独自のものがあった記憶があります。なお、当HP上の昨年10月1日のクリス・クリストファーソンの訃報(「天国の門」の主演俳優)の注4で、以下のように述べました。
筆者は「天国の門」を日本公開当時(1981年)に東京テアトルで観ました。劇場の構造もあって、自分が19世紀末のアメリカで騒乱に巻き込まれている感に捉われました。音楽や音響効果も、映画で描かれている世界であればこう聴こえるのではというものであって、セリフを含めて必ずしもクリアに聴こえるわけではないことを体験した記憶があります。今なら、イマーシブな体験に近いものだったと言えます。
なお、日本公開版も約2時間半の短縮版だったためか、もっとこの世界に浸っていたいと思いながらやや物足りなかった気もしました。当時は、ファスビンダー監督の「ベルリン・アレクサンダー広場」やベルイマン監督の「ある結婚の風景」、テオ・アンゲロプロス監督の「旅芸人の記録」や「アレキサンダー大王」といった長尺ものに慣れていたせいかもしれません。
当時であればテレビ用のミニシリーズで製作されていたら、現在ならばストリーミング向けの歴史劇か西部劇のシリーズで製作されていたら、もしかすると収益面でもここまで大きな失敗にはならなかったかもしれません。プロジェクトが大きいほど、その企画開発のタイミングというのも成功の鍵であるかもしれません。
【注3】
HEAVEN’S GATE (1980) | Official Trailer | MGM
予告編の最後にUAのロゴやTAがUAを所有していることがわかります。また、UAを買収したのがMGMであるため、予告編も本編もMGMの所有です。
【注4】
主演クラスの俳優や監督と製作会社が一定期間中に複数の作品を製作することを契約するもの。製作会社にとっては青田買いに成功すればヒット作を安く作れる可能性があり、俳優や監督にとっては仕事が安定するメリットがあります。代表的な例として、パラマウント映画がジョン・トラボルタと出演作3本で契約して、“サタデーナイトフィーバー”や“グリース”をヒットさせ、3本目は“年上の女(ひと)”という恋愛ドラマで失敗したケースがあります。踊りも歌もないジョン・トラボルタなんて観る価値がないと言われたことを思い出します。
作成・編集:QMS 代表 井田修(2025年7月14日更新)
2025年夏の3冊(3)~「マスターズ・オブ・ライト[完全版]~アメリカン・シネマの撮影監督たち」
3冊目に採り上げるのは、「マスターズ・オブ・ライト[完全版]~アメリカン・シネマの撮影監督たち」(デニス・シェファー+ラリー・サルバート編、高間賢治+宮本高晴訳、2023年、フィルムアート社)です。
この本はハリウッドの撮影監督15人にインタビューしたものです。インタビュー自体は1980年代半ばに行われているため、スマホでプロの映画監督や映像作家が作品を撮ることも珍しくなない現代から見ると、フィルムを用いてパナフレックスカメラで映画を撮ることが当たり前だった時代の話は、撮影方法・照明テクニック・現像との関係性など技術的な事項に関しては数世代前のことが話題になっていると言わざるを得ません。
ただ、それまでに確立している撮影の常識や技術に捉われずに新しい撮影技法を取り入れていこうとする姿勢であったり、当時出始めたビデオやステディカムなどの新しいメディアや機械などの影響を評価して実際の作品でも採用してみるなど、当時確立していたハリウッドスタイルの撮影方法を革新していこうとするマインドは、様々な制約がある中でより一層明確化していったのではないと読み取ることができます。
インタビューに応えている15名のうち大半はベテランの撮影監督ですが、ジョン・ベイリーのように当時売り出し中の人もいます。それぞれの名前と筆者が個人的に観たことがある作品名を、以下に目次順に挙げます。
ネストール・アルメンドロス
「恋のエチュード」「アデルの恋の物語」「トリュフォーの恋愛日記」「天国の日々」「緑色の部屋」「クレイマー、クレイマー」「青い珊瑚礁」「終電車」「ソフィーの選択」「海辺のポーリーヌ」「日曜日が待ち遠しい」、以上11作品
ジョン・アロンゾ
「バニシング・ポイント」「チャイナタウン」「さらば愛しき人よ」「名探偵再登場」「ノーマ・レイ」「ブルーサンダー」「マグノリアの花たち」、以上7作品
追加撮影「未知との遭遇」
ジョン・ベイリー
「アメリカン・ジゴロ」「普通の人々」「キャット・ピープル」、以上3作品
ビル・バトラー
「ジョーズ」「リップスティック」「デモン・シード」「カプリコン1」「グリース」「アイス・キャッスル」「ミュージック、ミュージック」「パラダイス・アーミー」「ロッキー3」「ロッキー4」「チャイルド・プレイ」「山猫は眠らない」、以上12作品
追加撮影「カッコーの巣の上で」
マイケル・チャップマン
「さらば冬のかもめ」「タクシー・ドライバー」「ラスト・ワルツ」「ワンダラーズ」「レイジング・ブル」「マイ・ライバル」、以上6作品
ウイリアム・フレイカー
「ローズマリーの赤ちゃん」「ブリット」「ミスター・グッドバーを探して」「天国から来たチャンピオン」「1941」「シャーキーズ・マシーン」「ウォー・ゲーム」、以上7作品
追加撮影「カッコーの巣の上で」「リップスティック」「未知との遭遇」
コンラッド・ホール
「明日に向かって撃て!」「テキーラ・サンライズ」「訴訟」、以上3作品
ラズロ・コヴァックス
「イージー・ライダー」「ファイブ・イージー・ピーセス」「ペーパー・ムーン」「シャンプー」「ニッケル・オデオン」「ニューヨーク、ニューヨーク」、「フィスト」「パラダイス・アレイ」「ゴーストバスターズ」、以上9作品
オーウェン・ロイズマン
「フレンチ・コネクション」「エクソシスト」「ネットワーク」「サージャント・ペッパー」「出逢い」「スクープ 悪意の不在」「トッツィー」、以上7作品
ヴィットリオ・ストラーロ
「ラスト・タンゴ・イン・パリ」「青い体験」「スキャンダル」「1900年」「アガサ 愛の失踪事件」「地獄の黙示録」「ルナ」「レッズ」「ワン・フロム・ザ・ハート」「ラストエンペラー」「ディック・トレイシー」、以上11作品
マリオ・トッシ
「キャリー」「ベッツィー」「メーン・イベント」「スタントマン」「この生命誰のもの」、以上5作品
ハスケル・ウェクスラー
「アメリカン・グラフィティ」「カッコーの巣の上で」「ウディ・ガスリー/わが心のふるさと」「帰郷」、以上4作品
追加撮影「天国の日々」「ローズ」
ビリー・ウイリアムズ
「恋する女たち」「日曜日は別れの時」「黄昏」「ガンジー」、以上4作品
ゴードン・ウイリス
「ゴッドファーザー」「ゴッドファーザーPARTⅡ」「大統領の陰謀」「アニー・ホール」「インテリア」「マンハッタン」「スターダスト・メモリー」「カメレオンマン」「カイロの紫のバラ」「推定無罪」「ゴッドファーザーPARTⅢ」、以上11作品
ヴィルモス・スィグモンド
「ロング・グッドバイ」「スケアクロウ」「続・激突!/カージャック」「愛のメモリー」「未知との遭遇」「ディア・ハンター」「ローズ」「天国の門」「黄昏のチャイナタウン」、以上9作品
彼らのうち、アメリカ以外の国で生まれ育ったのが5人です。ネストール・アルメンドロスとヴィルモス・スィグモンドがハンガリー、ヴィットリオ・ストラーロとマリオ・トッシがイタリア、ビリー・ウイリアムズがイギリスで、ここに紹介されている撮影監督の3分の1がアメリカ出身ではない人々です。故に、ハリウッドのユニオンに加入しないまま撮影監督として仕事をした人もいれば、ユニオンに加入できるまで長い期間下積みを経験した人もいます。
技術の習得という面からも生活費を稼ぐという面からも、一人前の撮影監督として映画製作に関わるまで(人によっては撮影監督として実績を挙げた後でも)、テレビやCMの仕事も重要だったことが語られます。
撮影監督の地位向上や報酬引き上げ(特にグロス・パーセンテージ契約の導入)を語るウイリアム・フレイカー(ASC=アメリカ映画撮影監督協会=の会長を2期務めた)のような人もいれば、政治的にリベラル派であることを隠さず、政治の実態に切り込むドキュメンタリー映画の制作者としても10本の作品がありFBIに尋問を受けたこともあるハスケル・ウェクスラーもいます。撮影監督の中で高い評価を受けながら、アカデミー撮影賞を受賞していないゴードン・ウイリスもいます。
さて、インタビューで繰り返し触れられるのは、撮影監督の仕事とは何か、職人としての仕事と芸術家としての仕事の違い、企画の選び方、監督との関係性、照明について、現像及び現像所との関係について、撮影監督を目指そうとする若い人々に向けてのアドバイス、といった事項です。その中で、機材の特性や撮影環境の違いが映画のルック(注5)に及ぼす影響といった撮影に関するテクニカルな面への言及も多いのは当然ですが、ルックや構図の考え方とかよいルックの判断などの撮影監督しか決定できない要点をどのように学んできたのかといった面についても少なからず触れています。
本書の基本的なテーマである“監督の仕事とは何か”ということで言えば、例えば、マイケル・チャップマンは次のように撮影者としての役割を説明しています。
キャメラマンの基本的な職務は一連の映像をフィルムに定着させることです。それ以外のことは作品によって大きく異なってくる。キャメラマンは作品ごとに自分の役割を監督と取り決める。照明だけしておとなしく引き下がっていろと言う監督もいれば、もっと仕事を任せる監督もいる。(本書180ページ)
また、マリオ・トッシは撮影監督の仕事について次のように語っています。
撮影者の職務はたいそう複雑です。芸術的領域と技術的領域の両方で仕事をしなければならないからです。映画制作を構成するさまざまな部門のすべてと関わりをもっていなければならない。まず第一にくるのは撮影クルーをたばねることです。クルーは小編成のときもあれば大所帯のときもある。……芸術的領域を犠牲にせずに、撮影をスムーズに進行させ、スケジュールを乱さないことが何より求められます。……撮影者にはシナリオの要求する雰囲気をしっかりと作り出す責任がある。扱うものがコメディかドラマかスリラーかによって対応を変え、必要とされる気分やムードの醸成にベストをつくさねばいけない。(本書372~373ページ)
撮影に入る前に何を準備するのかといえば、多くが監督との打ち合わせを挙げます。これはスケジュールや予算、スタッフィングや機材などを調整するだけでなく、監督が実現したいと意図する作品にふさわしいルックを撮影監督として理解しておくことや、そのために必要であれば参考となる映画などを一緒に観て確認したりルックの方向性を把握しておいたりすることです。
また、照明について言えば、スタジオ(サウンドステージ)撮影とロケやオープンセットでの撮影との違い、自然光を活用する際の留意点、ライトの種類や活用方法など、カメラやフィルムなど直接撮影に用いる機材の種類や取り扱い方以上に、撮影監督が決定しなければならないことが説明されます。本書のタイトルが『マスター・オブ・ライト』であるのも、撮影監督が照明の責任者であるからです。実際、美術監督や衣装・メイク・道具など現場スタッフ全体と話し合って照明方法やカメラポジションなどを決めていきます。
ちなみに、撮影監督の多くは、直接カメラのレンズを撮影現場で覗くことはありません。カメラの操作を行うのはカメラオペレーター(セカンドキャメラマン)です。こうしたことも、本書を通して知ったことのひとつです。
もちろん、一般論だけでなく、実際に観たことがある作品がどのように作られていったのか、撮影監督だから語ることができるエピソードも次々と出てきます。ここでは個人的に特に興味をもった部分を紹介します。
ネストール・アルメンドロスの「天国の日々」における自然環境でのロケ撮影(本書52~56ページ)、ジョン・アロンゾの「バニシング・ポイント」における毎日移動しながらの撮影(本書70~72ページ、88~89ページ)、ビル・バトラーの「カッコーの巣の上で」での監督や俳優との人間関係を調整するのも撮影監督の仕事(本書154~156ページ)と「ジョーズ」の水中撮影(本書164~167ページ)、マイケル・チャップマンの「レイジング・ブル」における黒白映画とアクションシーン(本書208~210ページ)、ウイリアム・フレイカーの「ローズマリーの赤ちゃん」における監督との画作りの実際(本書231~234ページ)と「ミスター・グッドバーを探して」でのクライマックスのストロボ撮影(本書239~244ページ)、オーウェン・ロイズマンの「エクソシスト」でのホラーシーンについて(本書329~332ページ)、マリオ・トッシの「メーン・イベント」における主演女優の撮り方(本書381~383ページ)、ビリー・ウイリアムズの「恋する女たち」(本書429~431、437ページ)、ゴードン・ウイリスの「ゴッドファーザー」「ゴッドファーザーPARTⅡ」(本書452~460ページ)と「大統領の陰謀」での広いオフィスの撮り方(本書462~465ページ)、ヴィルモス・スィグモンドの「未知との遭遇」の特撮について(本書500~507ページ)です。
これらの他にもヴィットリオ・ストラーロが「レッズ」の撮影の最終盤にASCと厳しくやり合うエピソードなど興味が尽きません。本書は技術的な話だけでなく、報酬やユニオンとの関係など業界関係のエピソードも豊富で、映画は多種多様な人間たちが関わって作り上げていることが実感できます。
【注5】
本書の撮影用語集によれば、ルックとは「映像の調子、画調。映画の(内容でなく)外見。」
映画を構成する要素のうち、製作監理に関する事項(作品の企画開発、スタッフィングとキャスティングに関する決定、資金調達、スケジュール管理、P&Aなどビジネス面の事項など)、シナリオに関する事項(作品の構成、劇映画であればストーリーやセリフなど)、俳優に関する事項(キャスティング、監督による演出、演技など)、サウンドに関する事項(音楽、音響効果など)を除いた、スクリーンを通じて目に見える全てのもの。
作成・編集:QMS 代表 井田修(2025年7月23日更新)
このサイトは、行政書士井田道子事務所のホームページです。